「僕がtrue tearsを好きになれない理由」への反応について

しまうま技研さんから表題の記事反応を頂いたので返答させて頂く。

まず、僕の「結局true tearsに描かれているリアルで痛々しい恋愛というのは、僕が萌えアニメに求めているものと徹底的に違う。」という主張に対して、以下のように書かれている。


まず私は、この作品が「萌えアニメ」にカテゴライズされることに強い抵抗を感じる。

私の中では「萌えアニメ」というと、一にも二にも「ヒロインの可愛らしさ」を中心に据えて、それを最前面に押し出した作品ということになっているから。

確かにこの作品は全体としては萌えアニメにカテゴライズされるべきではないと思う。しかし、この作品は表面的には萌えアニメのフォーマットに従っている。例えばヒロインが全員主人公に恋愛感情を抱いているという点、「不思議ちゃん」キャラがいる点、原作がエロゲである点(追記:原作はエロゲではないらしい)。もちろん絵柄もそうである。だから、僕がこの作品に萌えアニメの面白さを求めたことは自然なことだったと思う。特にシリーズ序盤ではAIRのような典型的な萌え系ファンタジーに行くのか、実際にそうなったような昼ドラ的展開に行くのか不明瞭だったから、なおさらである。

だから、


true tears」が既存の作品によくある人物配置に従わなければならない理由は何もないと思う。
というのはむしろ、「既存の作品によくある人物配置に従」ってはいけなかったと言うべきだと思う。娯楽には大概「型」というものがあって、それに従って作るのが正しいこととされている。もちろんそれを破るのも自由だが、そうすると受け手が違和感を感じてしまい、内容を素直に受け取ることができなくなる。言い換えれば、伝えたいテーマやメッセージをありのままに伝えるためには、表現手段は受け手にとって透明でなければいけない。もしこの作品のテーマがリアルな恋愛を描くことにあるとすれば、その場合別のふさわしい「型」があるはずである。それを中途半端に萌えアニメのようなフォーマットで作ったことは、作品のメッセージを不透明にしてしまう結果になってしまっていると思う。

しかしそういった萌えアニメへの期待が裏切られるという体験自体に、価値を認めることはできる。エヴァのラストがそうであったように、期待を裏切られることはそれ自体が新鮮で面白い体験で、さらに作品論的な発見や自分自身に対する気付きをもたらしてくれる。僕の書いた当該の記事もそのような体験があってのものである。もし制作者の意図が視聴者の期待への裏切りにあるとすれば、僕がこの作品を気に入らないのは「正当な」受容の仕方だとすらいえると思う。いくら気に入らなくてもさすがにもうこの作品から目は離せない。


それこそが作品のオリジナリティというものでは? それが「好きになれない」のでは、自ら愉しみの幅を狭めてしまうことになるんじゃないの?

「アニメを楽しんでいこう」とするなら、作品のあり方をガチガチに規定しない方がいいと思う。

いい作品を楽しめないなんて、勿体無さ過ぎるよ。

ということだけれど、この「作品」や「アニメ」を「女」に書き換えると、


それこそがその女のオリジナリティというものでは? それが「好きになれない」のでは、自ら愉しみの幅を狭めてしまうことになるんじゃないの?

「女を楽しんでいこう」とするなら、女のあり方をガチガチに規定しない方がいいと思う。

いい女を楽しめないなんて、勿体無さ過ぎるよ。

それも一つの考えだと思う。「女のあり方をガチガチに規定」せずに「愉しみの幅を」広げて「いい女を楽し」むことは。しかし僕としては自分の気持ちを理屈でごまかさずに、例え非合理に満ちていても自分の素直な感情に従って、本当に好きな女だけを好きだといいたい。(もちろんアニメの話です。)