7話をみて/「キャラ」と「人間」/僕がアニメを見る理由
僕は以前に、「キャラ」と「人間」の違いについて語ったことがある。
「キャラ」とは類型的な特徴を示したり類型的な行動をとるだけで、その人物の言動や行動は軽い気持ちで楽しめても、受け手の心の深いところには響かない人物(または人物のあり方)だといえる。
「人間」とはその人物の特徴や行動が類型性を越えた強度を持っていて、その人物の行動や言動が心の深いところに響く人物(または人物のあり方)だといえる。
単に萌え要素の組み合わせによって作られただけの人物は「キャラ」だと言えるし、萌え要素的な特徴付けや物語のパターンだけからは予想できないような、しかし人間らしいと感じられるような特徴を持つ人物は「人間」だと言えるだろう。
そこで、今回マリアが眠りについたナギに対して思った言葉、
「今はまだ、ハリボテでできた関係ですけど、あなたのその思いが届きますように」
これは、「キャラ同士の関係」(=「ハリボテでできた関係」)から「人間同士の関係」(=「思いが届く関係」)へ移ってほしいという願いとパラレルであるように感じられた。
そこで思ったことが、僕がアニメに求めているものは、そのような願いなのではないかということである。
一方でアニメには単に萌え要素と典型的な物語のパターンの組み合わせだけで作られたような極めて「キャラ」的な作品がある。
もう一方で、アニメには「true tears」のようなキャラクター性以上に「人間」としての人物のあり方を重視した作品がある。もちろんこのタイプの作品はアニメよりアニメでない一般向けのドラマなどに多いだろう。
僕がこれまで好んできた作品を考えてみる限り、この両極のどちらに属するような作品もあまり好きではない。僕が好きなのは、見た目は「キャラ」中心の萌えアニメでありながら、実際には「人間」的な深みのある恋愛や人間性が描かれているように感じられているような作品である。(「ハヤテのごとく!!」もそのタイプの作品だと思っている。)
そのような作品に僕が求めているのは「成長」のあり方を知ることなのではないかと思う。
だが、ただの成長ではない。単に「成長」を求めるならば、「人間」中心の作品を見ればいいはずである。そう言った作品において描かれる本気の心の痛みや苦しみは、人間の成長を強く促すものであり、そういった作品を見れば「成長」のあり方を知ることができるだろう。
僕が求める「成長」とは単に痛みを越えて大人になるというようなことではなく、「子供」であることを否定せずに大人になるということである。ここで「子供である」とは「人間」の本質を見ることができず、パターン化された嗜好によってしか人間の良し悪しを判断できない、つまり「キャラ」的な判断しかできない存在である。
とすると一見「子供」であることは悪いことでしかないようだが、子供の頃に出来上がった嗜好というのは生涯消しがたいものである。それは焼き印のように心の憶測に刻まれて、生きている限り振り落とそうとしても振り落とせないものである。
そういった「子供」らしさを否定するのは自分に嘘をつくことである。だから、僕が求める「成長」とは「子供」である自分を否定せずに「成長」することである。
話を戻すと、そういった「成長」とは類型的な存在である「キャラ」から類型性を越えた強度を持つ「人間」へ推移することとパラレルである。
僕が登場人物が「キャラ」とも「人間」とも付かない作品を好むのは、そういった作品においては、子供であることを否定せずに大人になるという「成長」の可能性が見えるからなのではないかと思うのである。