僕がtrue tearsを好きになれない理由(第8話の感想に代えて)

話が盛り上がってきてクオリティも一向に衰える気配を見せず、文句のつけようのない出来なのだが、自分的にはなんだかなあという感じ。これまで僕は感情移入できる作品=好きな作品と考えてきたのだが、この作品から受ける印象を考えるとどうもそのとらえ方は単純すぎるような気がしてきた。やはり感情移入してしまう自分があまり心地よくないという状況がある。

何がこの作品への感情移入をあまり心地よくないものにしているかというと、作品内に安定した立ち位置に立つキャラがいないということなんじゃないかと思う。大概の萌えアニメでは、というか普通のエンターテイメント作品においては、不安定な立場に置かれるメインのキャラクターに対して、安定した立場に立ってメインキャラへの助言や、視聴者への解説役になるキャラクターがいる。例えばマリみてならその話における主役以外の山百合会のメンバーが助言、解説的な役割を担ってるし、ハルヒならハルヒが自由気ままに動くのに対してSOS団のメンバーがそういった立場に立っている。これはお笑いでいうならボケとツッコミのようなもので、不安定な立場の人と安定した立場にいる人の両者がいて、前者があらぬ方向に進んでいくのを後者が常識的な立場から矯正したり、またはその異常性を指摘したりして、その世界観全体のバランスが保たれるようになっている。だからどちらが欠けても世界観は片手落ちなものになってしまう。

ではtrue tearsはどうかというと、この作品にはほとんどボケ側のキャラクターしかいない。主要登場人物はほぼ全員が作品内の愛憎模様に生身で参加しており、人間関係を外側から眺めて状況を解説したり、不安定なキャラに自信を持って助言をしたりするキャラが存在しない。強いていえば比呂美の友人の朋与や眞一朗の家の使用人の少年はそういう立場にいるが、ほとんど登場しないので例外と言っていいだろう。

このように安定した立場に立つキャラクターが存在せず、しかしキャラクターの感情表現が高いクオリティで表現されていて、共感せずにはいられないというような場合、視聴者は必然的に不安定な立場にいるキャラクターに全人格的な感情移入をせざるを得ない。普通の作品では例えば修羅場のシーンの前後に安定した立場のキャラの描写があったりして、視聴者は彼らの立場にも共感することにより修羅場のシーンでの感情移入の衝撃を和らげることができたりするのだが、この作品ではそういった逃げ場がほぼまったく存在しない。

そしてこの作品の主要登場人物は皆、それぞれの仕方で純粋で、痛々しい。純粋すぎる乃絵、鈍感で不器用な眞一朗、感情のコントロールがきかない愛子、引っ込み思案な比呂美、見かけよりもろい三代吉。恐らく視聴者の誰もが、自分自身の若い頃の痛々しい純粋さを彼らのうちの誰かに重ねずにはいられないだろう。ここで思い出されるのは決してうる星やつらなりラブひななりで体験した予定調和で進む疑似恋愛ではなく、自分の欲望を抑えきれずに前も後ろもわからず手探りで進むしかなかった、ちっとも美しくも華やかでもない少年少女時代の体験である。

萌えアニメというのは、僕にとってはそういった思い出したくない生の少年少女時代を覆い隠す装置として存在している。大きなお友達も、キャラクターと同年代の萌えアニメファンも学園ものは大好きだと思うが、そこに求められているのは決して現実に体験している、または体験した学園生活ではないだろう。そこには不器用に手探りで自分の欲望を満たそうとして平気で他人を傷つけてしまうような、または勘違いで求め合って実際にはまったくお互いを理解していないというような、現実には無数に起こっている事実はまったく描かれていない。そういった現実は誰もが思いやりを持っていて真の相互理解が存在するかのようなありえない現実に塗り替えられている。これは端的に言って逃避ではあるが、人間には逃避できる時間も必要だし、その逃避の中に何もないというわけでもない(と僕は信じている)。

結局true tearsに描かれているリアルで痛々しい恋愛というのは、僕が萌えアニメに求めているものと徹底的に違う。僕が求めてるのは現実にはあり得ない世界における理想化された恋愛であって、過去の思い出したくない痛い自分を喚起させるような作品ではない。もちろん僕にとってこの作品は決して楽しめないものではない。アニメーションの美しさ、演出手法の面白さ、それから下世話な好奇心を満たすという意味では、楽しめる。しかし自分がこうも真剣にアニメを見てる理由とは、この作品は何の関係もないんじゃないかと思う。