第12話 「シゴフミ」

素晴らしいラストだった。脚本だけ見るとご都合主義満載の無理矢理まとめたラストにしか見えないが、それを補って有り余る映像と音声の強度がたった20分強のアニメとは思えないほどの豊潤な印象を生み出していた。

どの部分をとっても効果的でない演出は見られないが、特に重要だと思える部分を取り上げて自分なりに分析してみようと思う。(前回の感想も含めていつもと趣向の違う感想だけど、ちょっとした実験のつもり。)

■縦の反対称性と横の対称性

前回は感想でさんざん書いたように、一点透視図法の消失点に正面を向いたキャラを配置したり、画面や部屋の中心から真正面や背面でキャラを描いたりと、画面に対して垂直な線を基準にした構図が多かった。これを「縦」の構図であると言おうと思う。(いわゆる「縦の構図」とは違う。たぶん。)

それに対して、今回はそのような構図は比較的少なかったように思う(数えたわけではないが)。さらに「縦」の印象を強める装置である「階段」の描写も少なかった。前回はかなりの回数描かれていたし、神社の階段を上る描写はエピソードの上で重要な描写だった。「階段」が「縦」の印象を強めるというのは、それが縦方向に伸びていくものであり、階段が動くときには複数の横のラインの移動によってより縦の移動の印象が強まるということによる。総じて今回は「縦」の印象は前回よりずっと弱かったと思う。

それに対して支配的とまでは行かないが、いくつかのシーン、そして重要なシーンであるラストの文歌とフミカの対面する場面の大部分がキャラを「横」に向かい合わせる構図をとっていた。さらに特にこのシーンの場合はずっと二人は対称的に配置されていた。

今回と前回のフミカと文歌の対面を見せる構図は対照的である。今回はこのように横向きに対称的な構図を中心に描かれていたが、前回の二人の対面するシーンは基本的に背景(神社、敷石、階段)に対して「縦」に配置された構図によって描かれていた。その中でも中心となるのはお互いの正面を写したショットである。この構図は先に述べた対称性から非常に離れた構図なので、反対称的(antisymmetric)な構図であると言おうと思う。

さてこの「縦の反対称性の構図」と「横の対称性の構図」(以下「縦」と「横」)にはどのような違いがあるだろうか。思いつくところを箇条書きしてみる。

1.「縦」においては二人の存在感に落差があるが、「横」においてはない。

2.「縦」においては定義上多くの場合背景が奥行きを感じさせるのに対し、「横」の場合は定義上多くの場合奥行きを感じさせない構図である。この二つのシーンについて言えば、「縦」の場合は背景の神社と海が遠くに配置されており、奥行きを感じさせるのに対し、「横」の場合は揺らめく光に満ちたガラスの壁によって奥行きが過剰に遮断されている。

3.「縦」はお互いの主観に重ねた構図をとれるが、「横」の場合はとれない。

4.「縦」は正面のアップを写すことが出来、より強い感情を表せるが、「横」の場合は二人一緒に写っているのでアップはできなず、強い感情を表せない。横向きのままアップにしても真正面の構図ほどに強い感情表現はできない。

5.「縦」においては視聴者と視線が交わるが、「横」においては交わらない。

6.「縦」においてはお互いの視線が交わることが視聴者に見えないが、「横」においては見える。

7.「縦」においては顔を一人ずつしか写せないが、「横」の場合は二人同時に写せる。
このうちのどれが重要かを考えるために、まずそれぞれのシーンで描かれるべきだったテーマを明らかにしておこう。前回の場合は感想で書いたようにまず「罪」を象徴するフミカと「無垢」を象徴する文歌が対峙していること、そして二人の一致した意向としてフミカを殺してしまうことにより「罪」を消し去ってしまおう、というのがテーマだった。しかし今回では「無垢」や「罪」とは関係なくお互いに普通の少女としての人間性を持つ価値のある存在であることを確認し、お互いを認め合う、ということがテーマだった。これは自分の印象を元に曖昧な部分を無視した上で単純化したもので、あまり良い分析だとは思わないが、とりあえずこういうことだとしておく。

まずここからわかる今回と前回のテーマ的な違いとして、今回はお互いが価値を認めあうのだから二人の価値が等価であることが描かれる必要がある。また前回は「罪」と「無垢」の落差、また片方が死に行くべきだという選択から二人の価値の落差が描かれる必要があった。この違いは1と7の効果によって表現されているといえるだろう。

次に前回はそれぞれが自分の「無垢」に友達が欲しいという面や、時には人を撃つような「罪」を背負って生きていかなければならないという事実に目を向けていなかったのに対して、今回はそれぞれがそれらの面に目を向けることになったという点がある。これはお互いを見つめると言うことだから6の対比が効果的に働いているだろう。

他の効果についてはどうだろうか。3についていえば、確かにお互いの主観ともとれる構図であるが、表現の上で意味を持っていたとは思えない。4はできれば今回の件のシーンでも正面のアップを多用した方がより印象的だったろうが、そうすると上述の横の対称性の利点が消されてしまうので、あまり使われなかったのだと思われる。5は視聴者が画面外の人格として参加を強いられるような作りでは全くないため、関係ないだろう。

2はどうだろう。これはやはり効果的だと思われる。前回は、フミカの方の背景に限ったことだが、一点透視図法による直線がキャラクターの背後に伸びていた。この技法は本来は長い直線を二次元の狭い画面に短い直線にして表すため、その落差が画面に強い緊張を与える。また、神社自体が「死」を暗示させるものである。これらの点から、フミカの方の奥行きはネガティブなイメージを強調するのに役立っていたと思われる。また、文歌の背景が「海」であることも、「罪」に対する健全な「生命」を示すという点で効果的だったと思う。

これまで見てきたところによると、縦の反対称性と横の対称性の対比は非常に効果的だったといえる。

■ラストシーンの背景美術

しかし2のもう一方である今回のキラメキ邸の揺らめく光のガラスに囲まれ、奥行きを遮断された構図はどうだろうか。別項にして考えてみたい。個人的な印象としてはこの背景はラストシーンの感動に十二分に貢献していたように感じられた。しかし原因は正直言ってよくわからない部分が多い。あまりにも非現実的かつ見慣れない背景であるため、なかなか印象を表現しづらい。しかしこの「非現実」という表現はある程度的を得ているような気がする。「シゴフミ」という作品は最初にも書いたようにご都合主義満載で設定にも非合理な部分の多い「非現実」的な作品である。例としては二重人格と人間の分裂が何のエクスキューズもなしに同じこととして受け取られてる点を挙げれば十分だろう。そのもともと「非現実」な世界で、この空間はさらに「非現実」なのである。

「非現実」であることには当然ながらリアリティを損なうという欠点がある。もちろん一方で現実にはあり得ない映像表現や設定を自由に使うことができるという利点もあり、この作品はその利点を存分に活用した作品である。それが通用するのは、冒頭に言ったように映像や音声の強度がアンリアリティを十分に補うだけの強さを持っているからである。しかしその「非現実」の世界の中でさらに「非現実」を持ち込むと言うことは、さらなるリアリティの低下の危険に脅かされるということである。そうしない選択もあっただろう。つまり「非現実」の中に「現実」を描けばフィクションの世界が現実世界に繋がったものであると言うことを視聴者に認識させることになり、作品の出口として適切なものになるはずである。

それにも関わらずこのような「非現実」の中の「非現実」が描かれていて、しかもそれが成功しているようにしか見えないのはなぜか。僕はその原因をキャラクターがこのガラスの壁の「絶え間ない美しさ」に囲まれているという点に求めたいと思う。「非現実」の中の「非現実」はあらゆる非現実的な表現が許容される自由がある一方で、常にリアリティが崩壊する危機に直面している。そのなかでリアリティ、つまり「実在するという幻想」を維持させるための一つの方法として「美しさ」を提示するというのがあると思う。人は美しい虚構に直面したとき自分のいる現実が虚構でその美しさが実在していると錯覚してしまうものである。しかしそれだけでは足りない。「美しさ」の幻想は多くの場合一瞬の衝撃で、時間と共に消え去っていくものだからである。その「美しさ」は「絶え間なく」なければならない。だから、「揺らめき」が必要だったのだと僕は思う。「揺らめく」ことによって「美しさ」は絶え間ない変転の中に置かれることになり、「実在するという幻想」は常に更新され続ける。

ここで気付くことは、この「美しさ」がそれ自体で美しいにも関わらず、一般的な意味での美と違ってそれ自体の美しさを享受するためのものでないということである。ここにあるのはどこまでもアニメ的に正当な「背景美術」の延長線上にあるものであり、キャラクターを引き立てるためのものでしかない。これはこの作品全体の評価にも当てはまるだろう。極めて前衛的でそれ自体は美しい表現が多く行われていながら、それらがキャラクターの心情を描くという正当な目的を越えて自己主張すると言うことが全くない。これまでのエピソードを思い返していただけばわかると思うが、どの話数の異様に見える表現もキャラクターの心情を表すためのものであって、それ以上ではなかった。このラストシーンは、これも極めて正当なことに、そういった作品の方向性が最大限に強調されたものだといえるのである。