しまうま技研さんへの返答

この件について。「誤解」されてるようですが、僕は別に気分を害していません。恐らく文体と文章の長さからそう判断されたのだと思いますが、僕は文章に感情を込めるのが苦手で、また自分の考えを短くまとめるのも苦手で、どうしても無味乾燥な長文になってしまいます。どうかご勘弁ください。

それでは返答。

しまうま技研さんの言われる「作品のあり方についての規定」と「自己規定」の違いについては、僕はよくわからなかった。

しまうま技研さんの言う「作品のありかたを規定しない。」は、


作品は、テーマ・ストーリー・キャラクター・世界設定などといった構成要素を、作者が自由に組み合わせて作り上げれば良い
ということで、「自己規定」は「『見たい世界』を決め込んでしまっていること」とのことである。しかしこの自己規定の説明は、結局、

  • 作品は、テーマ・ストーリー・キャラクター・世界設定などといった構成要素を、作者が萌えアニメにふさわしい作り方で作り上げなければならない

と作品のありかたを規定することなわけで、「作品のあり方についての規定」と同じことではないかと思う。

次に「女」の例えについて。


  • ひとりの女性だけを愛し続けることは、一般的に美徳とされる。
  • 幾人もの女性を(同時に)愛することは、一般的には不道徳と考えられている。
確かに一人の女性を愛することと多くの女性を愛することの違いには、このような意味合いもある。それにも関わらずあのような比喩を行ったことは僕の不注意だといえる。その点についてはお詫びする。申し訳なかったです。

しかし、次のような考えも一般的な恋愛観とはいえないだろうか。

  • ひとりの女性だけを愛し続けることは、一般的により素敵なことだとされる。
  • 幾人もの女性を(同時に)愛することは、一般的にはあまり素敵でないこと考えられている。
一途であることは道徳性とは関係なくとも素晴らしいことだと考えられている。それはそこにより「純粋」な思いがあるからだろう。道徳性では計れないところの「純粋」さである。

これは一般のオタク的なアニメ作品への考え方と正反対である。より多くの作品を楽しめることがオタクにとってのステータスになっている。そしてしまうま技研さんの主張もそちら側である。だから僕はあえてその正反対の価値観が一般的な恋愛の比喩を使った。

つまり僕が言いたいのは恋愛と同様にアニメの受容においても寛容であることが必ずしも幸せであるとは限らないということである。

このやり取りは結局、次のようなことだと思う。

もし僕が一途な恋に苦しむ少年で、誰かが僕を助けようとして


「女を楽しんでいこう」とするなら、女のあり方をガチガチに規定しない方がいいと思う。

女を楽しめないなんて、勿体無さ過ぎるよ。

と優しく僕に言ったとしよう。その場合その誰かに悪意も不道徳なところもないと考えるのが自然だし、「勿体なくなんかない!!」と頑固に主張する僕もまた自然だろう。

要は僕は子供でいたいと言ってるのである。恋愛や社会生活においてはそうではいけない理由があるだろうが、アニメの見方に関してはわがままを貫いていけない理由は何もない。

単刀直入に言うと僕がしまうま技研さんに求める要求は、僕の「萌えアニメ以外は嫌いだ」というスタンスが、価値のあるアニメに対する態度の一つであることを理解して欲しいということである。そこには一途に人を愛する人間のような「純粋」な思いがある。

もちろん僕はしまうま技研さんの、寛容に作品を受容しないことが「勿体ない」という意見が一面の真理であることを認める。これは恋愛ではないのだからそれが不道徳であることなど全くない。むしろ自分の欲望をむき出しにしている僕の態度の方が不道徳だろう。

それでも「氏の自己分析やアニメへの向き合い方に釈然としないものを感じた」と言われるならば、僕としまうま技研さんの間には何か根本的な考え方の違いがあるということだと思う。

とはいえ本当に純粋な人間は自分のことを純粋だとは言わないものだけど...