第10話 「デアイ」

暗い話ではあったが前回に引き続きオーソドックスにいい話でとても良かった。

今回特に特徴的だったのは夢を追いかけていた主人公に対する「世間」を象徴する大人の描写の仕方だろう。そういった大人たちは眼がまともに捉えられるカットが全くなく、非常に非人間的な印象を受ける表現がなされていた。主人公の母親すらも眼がまともに描かれ得ることがなかった。その結果一つには主人公の孤独感が表現されていて、もう一つ描かれているのは、充足して死んでいった主人公に対して、「世間」に同化して生きている人間がいかに「死んだような」生き方をしているかということだと思う。

もう一つ特徴的なのは文伽がこの話を通して結局なんの成長もしなかったということだろう。アヴァンで死に対する何の感慨も持たない彼女が描かれる。ラストのフミカに相対してる場面では、フミカから死についての事実を知らされ、そしてそれに応じて文伽のカットが徐々にアップになっていく。アップは強い感情の表現だから、そこで突然死という現実を知り泣き出したりすることを期待するのだが、結局何食わぬ笑顔で「そっか」と言っただけで終わってしまう。これは非常に期待外れである。さらに彼女の表現は終始単純なだけで人間らしい感慨を持たない人間として描かれており、言わば彼女も大人たちと同様に最後まで「死んだよう」だったと形容をしていいだろう。もちろん「まだ生まれていない」という意味でである。

その中で主人公毅彦だけが(レギュラー陣は例外)アップや回想シーンなどを使って徹底的に人間らしい、生きた表現がなされている。不治の病に犯されてることを除けば、典型的な大人になりきれないオタクの姿が描かれており、僕を含め多くの大きなお友達が強く感情移入したことだろうと思う。

しかし表現の仕方は生き生きとしていても、実際に作品世界の大人たちからみれば、彼は死んだようにしか見えないはずである。一方で世間に同化した大人たちにとっては自分たちが世界の中心であるかのように感じられてるはずである。つまりここでは死んだように見える人間が実は生き生きとしていて、他の人間が死んだようにしか見えないという価値観の反転が行われている。

では今回は自分の夢に従って生きた人間を肯定する、夢を信じていれば救われるという紋切り型のテーマが最終的な主題かというと、どうもそうでもないような気がする。毅彦は文伽が自分の作品を楽しんでくれてることに救いを感じるが、文伽はそのゲームがだれの作品なのかを知りもしない。また、文伽は毅彦からのシゴフミに、「人に許された最後の奇跡」であるにも関わらずまったく興味を示さない。もし毅彦が彼女に対して何か影響を与えることができたら、「人は死んでも思いは残る」という希望の物語だとすることができるが、まったくそんなことはない。結局毅彦は勘違いをしながら何一つ変えることなく単なる一ヲタとして死んでいったにすぎないのである。

ならばこれは世界の無常を訴える絶望的な話なのだろうか。僕にはそう見える。人生というのは偶然生まれて勘違いしながら死んでいくにすぎない、といったはかなさを最終的に描いてるようにしか見えない。ではサブタイの「デアイ」とは? この希望を感じさせる響きは今回の絶望的なテーマとどのような関係があるのか。よくわからない。

ていうか書き出しと逆の結論になってるじゃないか...