第10話 「君に贈ろう」

結局最後までなんだかよくわからなかった。まともに楽しむ作品としても、ベタな展開を何のエクスキューズもなしに無造作においてるだけなので、シラけるしかなかった。茶化すなら徹底的に茶化してくれた方がすっきりするのだが、中途半端に真面目だからどうもすっきりしない。

シリーズ全体としては、とりあえず小林沙苗が元気よく演じてるのがそれだけで楽しめるものだったが、総合的には今回の感想とあまり変わらない。

ただこの作品の新しかったのは、「メタネタやパロネタをネタでないかのように、つまりマジであるかのように見せていたこと」だと思う。例えば今回のアルゼイドの「自己紹介が先だろ」という突っ込みは明らかに視聴者が作品の構成について感じる印象を代弁している。普通ならこのような内容を表現するときは茶化した雰囲気で行ったり、他のキャラが突っ込みを入れたりするところだが、この作品はそれを行わず、あたかもまったくメタネタではないかのように見える作りをしている。このようなことをするアニメはここにも書いたようにあまりない。

これはどういう意味があるのだろうか。「シリアス」と「ギャグ」の転換は物語によって一般に効果的に使われている。特にアニメではありふれている。しかし我々の生きている現実はどうだろうか。例えば結婚式の仲人の挨拶でその仲人のカツラがずれていたとしよう。これは虚構の話だったら安心して笑えるところだが、現実ではさすがに笑えないだろう。現実にはこのようなギャグともシリアスともつかない事態がいくらでもある。ギャグとシリアスの区別というのは基本的には虚構の中にある概念であって、リアルなものではないということである。

この作品は先ほども言ったように、キャラクターが視聴者から見たらネタにしか見えないようなことをシリアスに行っていた。これは言ってみれば、虚構の中ではシリアスとギャグの区別が当然であるという受け手の常識を否定するものだといえる。そして受け手はそのような表現の中で不安を感じる。その不安は現実にある事態がシリアスだかギャグだか決定できないときに感じる、つまり先ほど言った現実の結婚式でカツラがずれていたときに感じる不安と同種のものだといえるだろう。この作品は作品内のシリアスとギャグの関係を不明瞭なものにすることにより、受け手が虚構を虚構だと捉えるための前提をひっくり返していたのである。

しかし例えそのような試みが行われていたとして、あまりその試みが成功していたようには思えない。行き場のない不安感をあおるだけだったんじゃないかと思う。

しかし、僕としては先週の「変態」のあのシーンだけは、本当に新鮮な体験をしたように感じた。そこにはギャグとシリアスの区別が失われる不安感があったのはもちろんだが、その間の転換が非常に急激なものだったのが、そのように感じた理由だと思う。これまで言ってきたギャグとシリアスの区別というのは基本的には受け手がそれを理解し、納得した上で行われているものである。しかしあのシーンではそのような区別を理解している余裕はなく、理解を超えたところでシリアスがギャグになり、またシリアスに戻っていった。このような体験は「心」の受容の外にあると言う意味で「身体的」な受容と言っていいと思うが、まるで全身がそのシーンの転換に反応してるかのように、僕の体から笑いがこみ上げてきてしまった。

なかなか言葉にしがたい体験で、書いている自分でもよくわからないし読んでる人もよくわからないだろうが、こんな風に考えてしまうことが、この作品の魅力の一つだったと思う。この作品はなんだかよくわからない。しかし自分では何かをいつもと違う新しい体験してるような気がする。このような印象はアニメを視聴するという「体験」そのものの意味を考え直すきっかけになるように思う。そういった意味で大して面白くもなかったこの作品も価値があったんじゃないかと思う。