最終話の感想に代えて

最終回。直球。やっぱダメ。まぶしすぎる。こうなってしまうのは実は作品じゃなくて自分に問題があるんではないか、と考えてみたのが以下の文章です。

ある作品について面白いとかつまらないこと感じたことは疑いようのない事実だけど、その理由に関する判断は、必ずしも正しいとは限らない。当サイトでも作品の印象の理由について構成だ作画だ云々言っているけど、それは自分の印象を反省した結果の推測なのであって、必ず正しいと言いたいわけではない。作品から受けた印象は覆せないけど、印象の原因の考察に関しては修正の余地がある。そこでこれまでのまなびをつまらないと僕が感じてきた理由を考え直してみたい。

僕がこれまでのまなびから感じてきた印象は一貫して「脚本でそこに至る状況を説明せずに見せたいシーンだけ見せる自分勝手な見せ方」ということであって、そこから「だから脚本が悪く、この作品は駄作である」という結論を導いたわけだが、本当にそうだろうか、と今では思っている。単にその説明不足の部分を受け入れることが自分の趣味嗜好に合っていないから受け入れられないだけではないか、と。この記事はそのことを説明したものである。断っておくが、この記事の結論は「僕はまなびを先入観を持って見ていた」ということで、もしこの結論が正しければ、その前提となっている作品の受容の仕方も先入観を通していたということになるので、そのつもりで読んで欲しい。また、僕はこの作品を楽しんで見ておらず、内容についてはあまり良く記憶していない状態で書いている。後に言及するするフタコイオルタナティブも当時の記憶をもとに書いている。

物語において、「説明」はストーリーを理解してもらうために重要なものではあるけれど、また説明を省くことによってより表現を洗練させるという方法もある。省略が大きければ受け手の知識や能力に委ねる部分が大きくなり、その条件を満たしている受け手にとってはわかりきったことを説明しないことによる表現の密度の濃さとして肯定的に受け取られる。しかし、条件を満たさない人にとっては理解不能になってしまい、説明不足だと否定される。そういった受け手に受け入れてもらうためには説明を多くする必用がある。しかし、そうすると条件を十分に満たしてる人にとっては無粋に感じられ・・・といった風に説明と省略はお互いに相反する効果を持ち、受け手の条件と表現効果の兼ね合いによってによって使われ方が決定されるものである。

とはいうものの、まなびはその意味での受け手の条件を要求する作品ではないように思える。まなびの内容を理解するのはそう難しいことであるようには思えない。例えば学園祭実行の票が集まった理由が納得できないと感じる人は多いだろうが、なぜ票が集まったのかということははっきりと作中で示されている。納得できないのはその理由の説得力の強度の問題であって、因果関係が不明だからではない。僕はストーリーが理解不能とだと感じることはなかったように記憶している。だとすれば、まなびにおける説明の省略は理解に不必要な部分を省略した効果的な手法であると感じられてもよさそうなものである。見せ場のシーンに十分な尺をとって、説明の時間は出来る限り短い時間で済ませる。そう考えれば効果的に思える。行動や事件の原因は明確なのだから、少なくとも不自然に感じたりはしないはずである。しかし、僕にはそんな風には感じられなかった。なぜだろうか。

そこで自分の見ていた印象をよく反省してみるに、むしろ僕は解釈を自分の理解力に委ねられていることを気持ち悪く感じていたのではないだろうかと思う。そう、例えば6話で光香とむつきが夜の街をかけまわるシーン。僕が本当に心の底で感じていたのは、その美しい夜の街を駆け回るべきは沙羅や双樹や恋太郎であって、こんな人生の苦労を何一つ重ねていない、ヲタに媚び媚びのロリ萌えキャラであってはいけない、ということではなかったか。ロクに苦労をしていない、人生というものを知らないファンタジックなキャラである光香とむつきが、こんな幸せそうな時間を過ごしている、そんな事実に至る解釈を拒否する自分自身がいたのではなかっただろうか。キャラ達のあるべき姿を自分の趣味嗜好によって規定してしまうことは先入観というもので、それを抜きにしてまなびの世界をそれ自体だけで理解したのならば、また違った印象を得ていたはずである。不必要なことを言葉にしない、密度のある構成であると感じられていたかもしれない。

もう一つ。僕はこれまでこのぷに萌えキャラが大好きであると思ってきた。しかし、今ではそう思い込もうとする自分自身に、カラオケで最新の流行曲を歌おうとするオジサンのような、無理に新しいものを好きだと思いたいという虚勢が隠れていたんじゃないかと疑っている。まなびのキャラデザは他のアニメのキャラデザかけ離れているし、実際の年齢にはとても見えないという点からしても、普通ではない。僕は他のアニメを大量に見ているわけで、伝統的なアニメのキャラデザに慣れきってしまっていて、新しい造形にはついていけなくなってしまっている、ということは十分に考えられる。無理に最新の流行歌を歌うオジサンが本当は楽しくないのと同様に、無理にキャラを好きだと思い込んでいれば楽しめないのも当然である。このような先入観を持って本当の感覚をごまかしながら作品を見ていたらまともな評価などできようもない。

この記事の最初に、ある作品について感じた印象は確実だが、その理由は推測に過ぎないと書いたが、それ故に人は往々にして自分の趣味嗜好に起因する印象に、客観的な理由をつけて自分自身を正当化しようとするものである。僕はその罠に引っかかっていたのではないだろうか。作品が自分自身の趣味に合わないということを、脚本の説明不足という客観的な理由をつけて正当化していたのではないだろうか。もし先入観を持っていることや、キャラデザを受け入れられないことが多くの人がまなび拒否する理由であるならば、この作品を楽しんでる人たちは、オタクエリートであるとかないとか言う問題ではなくて、単に余計な先入観を持っていないというだけのことではないだろうか。
第6話の感想で僕はフタコイオルタナティブまなびストレートを比較した。僕は前者は面白くて、後者はつまらない、と判断するわけだが、両者ともに脚本であまり説明をせずに見せ場のシーンだけを見せているという点では同じ。では違いは何かと問うに、フタコイは製作者や視聴者にとって等身大のキャラが登場人物だから、作る側としても作りやすく、受け手としても感情移入しやすいのに対し、まなびは作り手にとっても視聴者にとってもリアルなキャラデはないから、感情移入しずらい。だから脚本で説明をしないことにはリアリティを感じられない。この意見に対して、コメント欄で真田虫さんから、青春を経験したことのない若い視聴者にとっては、フタコイのリアルさよりもまなびのファンタジー的な青春の方がリアルに感じられるから、脚本で説明する必要ではないのではないか、という意見を頂いた。僕は今は真田虫さんの意見に概ね同意している。しかし、若い人にとってリアルな青春よりファンタジー的なそれがリアルに感じれるという点についてははっきりと断言できない。単に若い人には青春がこうあるべきだ、という先入観がないだけではないかと思う。

考えてみればユーフォーテーブルの作品はこれまでずっと視聴者を選ぶものだった。ドッコイダーやシノブは僕は大好きだが、ドッコイダーの奇抜な演出や、シノブの単に雰囲気に流されてるだけのような構成などはとても嗜好が合わなければ受け入れられないものだったろう。恐らくまなびもそういった種類のもので、今回は僕に対して作られたものではなかった、ということにすぎないんじゃないだろうか。むしろユーフォーテーブルが多数の視聴者の好みに譲歩したと言ってもいいかもしれない。それだけの柔軟さがユーフォーテーブルにあったということかもしれない。
確かにまなびの脚本はストーリーや登場人物の感情の流れに十分な説明のある普通の脚本に比べれば不十分なものかもしれない。非文法的であるといってもいい。しかし、例えば言語において、文法に合わない表現が使われていてたとしても、それによってコミュニケーションが成立してしまっていれば、それは認められるべき表現であるというのは、現在では常識的な考え方である。例えば「ら抜き言葉」は、年配の人は認めないが、若者にとっては当たり前のように使われていて、言語としての機能を十分に果たしている。文法理論はそういった新しい表現を含めて説明するべきであって、ある文法が正しいと押し付けるべきものではない。同様に、脚本においても一定の決まりがあり、それは多くの人が守っているものではあるが、それから逸脱していたからという理由だけで、排斥するべきではない。まなびにおいては、多くの人が受け入れてるのである。つまりは非文法的な脚本だろうとコミュニケーションが成立しているのである。それを受け入れないのは、ら抜き言葉を否定する頭の固い人たちと同じ態度であるということではないだろうか。

もちろん、本当にまなびの脚本において視聴者とのコミュニケーションが成立しているかは別個に探求されるべき問題である。まなびを楽しんでいる視聴者は脚本の良し悪しを受け入れる能力がなく、単にぷに萌えキャラが出ていれば満足しているというだけかもしれない。でも僕はいくらゆとり世代だからといって若い人がそんなに馬鹿だとは思えないのです。まなびを受け入れてる若い人の発言がないのは、若い故に語るべき言葉をもっていないだけであって、実はオジサンたちの受け入れられない素敵なメッセージをまなびから受け取ってたりするのではないだろうか。そもそもネットでの評価はネットで語りたがる人の間の評価であって、その人たちの間に共通する物語の受容の仕方に何らかの偏向がないとは言い切れないのである。もちろん本当のところはわからないけど、僕は一般人の感性というものをどうしても否定する気になれない。どこぞで僕は「最近の若い人は感動的な物語を求めていないのではないか?」と書いたけど、ごめんなさい、たぶん間違ってます。いくらなんでも「スターウォーズ」や「寅さん」などの大衆的な作品を普通に感動することが出来ないほどに理解力が落ちた世代がいるわけがありません。現に物語を重視した「コードギアス」は若い人にも受け入れられているようだし(とはいえこれも物語抜きにしても楽しめる話なので事態はそう単純ではないけれど)。

で、言いたかったことをまとめると、僕がまなびを受け入れられなかったのは、脚本がの出来が悪いせいではなく、省略を多用した脚本の省略した部分の解釈をさせられることが、自分の趣味嗜好から気持ち悪かったから、ということになる。とはいえ正直この説明もあんまりしっくりこないのも事実。これをもっとはっきりさせるためには、自分の偏見を全力でそぎおとしてじっくりと視聴して判断する必要があるけど、そんなしんどいことをする気にはならないのです。例えまなびに僕を感動させ、影響を与える何かが隠れていたとしても、僕にとってはアニメって言うのはいっぺん見てダメならもうサヨナラ、というものなので。「エンターテイメント作品の価値は出会った時によって決まる」というようなことを宮崎駿が言っていたように思いますが、たぶんそんなことなんでしょう。だからこそ尊いともいえる。まなびストレートはつまらなかったけど、それについていろいろ考えることはできたし、ものすごく勉強にはなったので、そういう意味では素敵な出会いだったのかもしれません。