くるぶしあんよ氏への返答

上の記事に対する反応への返答です。

うーん、こちらにも誤解はあったように思いますが、こちらの言いたいことは完全には伝わっていないように思います。

なぜ僕が「一般人」にこだわるかというと、結局見方は人それぞれ、というような馴れ合いの結論で終わってしまうのが嫌だからです。それはある種の科学的精神で、物語と人間の普遍的な関係を理解したい、という欲望に基づいています。だから、僕は自分の印象を飽くまで一般的なものではないか? という問いかけを続けます。あくまで「問いかけ」です。別に自分が正しいとか言いたいわけじゃないんです。自分が自分の知らない色眼鏡をかけていないなんてことはもちろん言い切れません。その一般性の理解はひどく難しいように思います。しかし、これは恐らく同意してくれると思いますが、今回のプリキュアの制作者の方々はどのような技法がどのような印象を一般的に与えるか、ということに精通していると思われます。僕はそこに近づきたいんです。

僕や「『演出』が細かければ素晴らしい作品といえるか?」という命題」(以下、「『演出』が細かければ」)が語っていることは、作品の脚本や演出などの手法と、それから受ける印象の関係が中心です。しかし、あんよさんは、作品の印象から、さらに「解釈」したものを中心に語ります。印象には強弱があり、それを語ることが出来ますが、解釈には強弱がありません。故に面白い作品とつまらない作品の両方で同じ解釈が可能ということが起こります。ある解釈が可能であることは作品の面白さの証拠にはなりません。


まだ最初のほうの話しか観ていないので、後半はぼくも観ていて不備が気になるようになるのかもしれませんが、現段階ではやはり、きちんと解釈できるいい作品です。
という文章からは解釈できるから良い作品であるという考えを感じるのですがどうなんでしょうか。とはいえ、これはあんよさんのスタイルから必然的に来る欠陥であり、その代わりに多くの魅力もあるわけだから、否定すべきものではありません。
もちろん、これが以下の情熱から表れたものであることも忘れてはなりません。

なのにその感動を視聴時に感じられなかったので否定する人がいるから、ぼくはあえてああいう言葉に組み替えて説明しているのです。この言語化自体は視聴後に手間をかけてなされているとしても、このような表現によってしかぼくの感動は説得的に伝えられないのです。
僕の場合はそういう説得はあきらめて、同じように感じた人に同意してもらえればいい、と「おもしろい」とか「つまんない」しか書かないわけです。というのも、例え一生懸命説得した上で相手が「ならおもしろい」と納得したとしても、自分と同じ密度を持った感動を味わうわけではないからです。しかし僕のはニヒリズムです。「超面白かった」と直接の感動を言えば感動の量を表せるけれど説得力がない、説得力をもたせるために解釈を語れば、説得力は増すけれど感動の量を表せない、そういったジレンマは、感動を伝える時に必然的に付きまとうものだと思います。

作品の手法と印象について語ることと、解釈について語ることの立ち位置のこういった違いを「領域」の違いと僕は呼んだのだと思います。そして僕と同じ立場である「『演出』が細かければ」に対して、違った領域から批判を加えたことが侵犯であるように感じたのだと思います。しかしよく考えてみれば、あんよさんがそれを行ったことは「侵犯」ではなく正当なものでした。人の意見に違った視点からスポットを当てることが間違っているわけはありません。それを理解しないで批判的になってしまったのは僕の誤りでした。ごめんなさい。

しかしこの領域の違いをお互いに認めないことには、いくら議論してもすれ違うばかりだと思います。どちらが優れているというわけではないですが、どちらかを選んだら同時にもう片方を選ぶことは出来ないものです。僕はあんよさんと違って解釈を伝えることによって他人に面白さが伝わるとは信じていないので、面白さを伝えたい時はのシーンや演出や構成などの要素とそれから受ける一般的な印象を積みかさねる、という方法を多くの場合取ります。そもそも議論のベースが違うのです。僕はあんよさんの徹底して作品世界の独立性を認めて解釈する見方には感銘を受けたこと付け加えておきます。よく考えれば、むしろあんよさんの見方のほうが普通ですが、オタク的常識に毒された僕はそのことに気付いていませんでした。

僕はあんよさんが作品に過剰な意味を読み込む同人的な楽しみをしているのだと思ったのですが、そうではないのですね。そう思ったのは、あんよさんがシスプリ考察を「一種の創造」と言っていたのが一つ。あと、ハルヒの考察をバーっと読んだのですが、作品の解釈があまりに自然すぎて、勢いがつきすぎて想像の流れに任せて原作から必然的に導き出せないことまで書いてしまっているような印象を受けたからです。批判的な文章に創造があるのは矛盾で、それを自覚した上で楽しんでいるのではないか、と思ったのですが、違ったようです。失礼しました。

もしそういった同人的な読み方で作品の客観的な評価を語られたらたまったもんじゃない、というのが僕が前の記事を書いた動機でしたので、作品から必然的に導き出せることのみを元に解釈をしてるのであれば安心です。

他人より自分の理解力や感受性が優れているとか劣っていると言う話は、相手の理解を得ることが難しいばかりか、相手を傷つけるのであまりしたくありません。感受性が劣ってることがわかったところでそれを治す薬があるわけでもありません。無益で人を傷つける議論は避けるべきだと思います。

それから、こういうことを言うと本人は否定するだろうけど、『日々ノ日キ』の中の人は「普通」には見えません。文章の端々から尋常ならぬエネルギーが溢れてるのを僕は感じます。むしろこの徹底的な特殊性が、誰もが持っているけれど気付かない一般性の発見に繋がるのではないか、と期待しています。

あんよさんがまなびを楽しんでるのはわりと不思議な感じで見ています。僕にとってはこれは問答無用でつまらない作品でしかなかったので。でも記憶の中ではまなび達は結構生き生きしてたりするんですよね。


それはともかくも、『まなびストレート』と『プリキュア5』を比べれば、やはり後者のほうがしっかり出来ているし好ましいのですけど、前者に見出した感動がそれ固有のものであることも、ぼくは否定しません。

恐らくこの「しっかり出来ているし好まし」くない部分が引っかかってしょうがなかったんじゃないかと思います。アニメ見すぎで頭の中に普通の構成のパターンが焼きついていて、少し外れると気持ち悪く感じてしまうと言うことかもしれません。もしそうなら今回のプリキュアはそれにぴったりだったということです。

あまりネット上での議論にはなれていないので、自分の書いたことに責任は持ちますが、何か失礼なことがあったらごめんなさい。僕にとってはあんよさんの考察のスタイルが見たことがないものだったので、驚きながらもその正体を探っている次第です。