同人的な解釈とドラマ的カタルシス

あんまりこういう話はしたくないんだけど、どうしてもこれだけは言っておきたい。

くるぶしあんよさんの「ページの終りまで」の日記3月16日分3月17日分について。

まず、skripkaさんのhttp://blog.goo.ne.jp/skripka/e/79887e5e91930026bb0669587bc14cd6において、「また、「深読み」というなら、生徒総会でまなびが校歌を歌うシーンは、私には「CDを売るためのプロモーションとして用意されたシーン」としか思えないのだが……。」と書かれていることに対し、「それは作品外論理にすぎないので。ぼくなりに作品内論理で「深読み」すると、」と、「作品内論理」による深読みを行われております。で、その深読みというのが以下のものです。ここで理解しておくべきは以下の解釈の長さと出来のよさです。


 それは作品外論理にすぎないので。ぼくなりに作品内論理で「深読み」すると、この作品の主題のひとつは、終焉に立ち向かう再生への息吹、です。オープニング映像を初めて観たときぼくが感じたのは、「死」のイメージでした。焦点のぼやけた揺れる視界。色調の鈍い世界。死後の学園で遊ぶ子供達。
 現代と地続きのこの未来世界では、「学園」も「子供」もほとんど死んでいるんですよ。高校生が「子供」か、という批判に対しては昨日もちょっと触れましたが、この未来世界で高校に行くことを選ばなかった子供は、じつは「高校に行くことを選べなかった者」や、「子供として扱われなかった子供」だったりするんじゃないでしょうか。大人達が、子供の自由にしていいよ、早く働いて自己実現していいよ、と優しく語りかけているように見えながら、その実それは逆に、子供に早いうちから責任を負わせる世界です。未熟な若者に自分の尻を拭かせる世界。それは開かれているからこそとても厳しい場所です。そこには、自分の未熟さとゆっくり向き合っていくための余裕がない。余暇(スコレー)がない。スクールというのはそんな余暇を子供に与える場所だから、つまりそういう学園もない。(以下略)
これ以外にも、こういった「深読み」を行うことによりskripkaさんの演出の解釈に対する反論を挙げておられます。
で、何が問題かというと、skripkaさんは視聴者が「ドラマ的カタルシス」を得るための演出について語っているのに、あんよさんは二次創作的な解釈をした上での演出の話をしているということです。
「ドラマ的カタルシス」が得られるのは、何も考える余裕がなくなるほど作品に感情移入し、作品内での急展開などが起こるときです。例えば寅さんがまた失恋してしまう事がわかったときに、「あーまたか!」と心がゆすぶられてしまうアレのようなものです。またはシャーロックホームズが犯人を暴き立てた時の爽快感のようなものです。
重要なのは、そういった快感が得られるのは、作品を見ている時間内でということです。読者をカタルシスに導くためには様々な演出や構成の技術が必要になり、それが上手く使われていた場合のみ、視聴者は深い感動や衝撃に包まれます。さらにそれが得られるのは、一回目の視聴でのみであることも忘れてはなりません。これは寅さんやシャーロックホームズを二回見ることがどういうことか考えてみればわかるでしょう。
ところが、あんよさんの解釈は、例え「作品内論理」に基づいていたとしても、作品を視聴中に行うことは不可能なものです。上に引用した「深読み」を読めばわかりますが、これは視聴後にあれこれ考えた末の解釈であって、恐らくあんよさんも視聴中にそこまで理解できなかったと思います。
しかし、あんよさんはこの解釈を第1話の演出の解釈の前提にしています。そもそも、事前知識なしに第1話のOPを見た人がそんな解釈は出来ようもありません。つまり、あんよさんの演出やストーリーの解釈というのは、視聴時間外に行われるな解釈をふまえたもので、そのことは自覚されてると思います。
別にあんよさんの解釈が悪いといってるわけではありません。これは創造的な行為だと思いますし、むしろ個人的には今後のまなびの解釈を非常に楽しみしております(期待してますよ!!!)しかし、それは二次創作的といってもいい深い解釈に基づいたものであって、何も考えずに作品を見ることによってグワーッと感動が得られるかどうか、という話とは別の問題です。
あんよさんは「作品内論理」に基づいて解釈をされていますが、これは視聴者が作品を見たときに受ける印象と必ずしも一致しません。例えば、ある行動の原因が作品内で描かれていたとしても、その原因が視聴者にとって印象の薄いものであれば、その行動は不自然なものと視聴者は思ってしまいます。まなびストレートの問題は、作品内での行動や事件の因果関係に論理的な矛盾があるというわけではなくて、その因果関係を視聴者に印象付けるだけの強度をもった演出や脚本の仕事がなされてないということにあります。また、作り手の商売の匂いがしてしまうといった「作品外論理」も視聴者が感じてしまうものであれば、視聴者の印象に影響を与えるものとして重要視されるべきです。もし寅さんが作品内で歌っていた歌が、映画館を出たときに大々的に売られていたら気分が悪いでしょう。
あんよさんの経歴をみると、同人誌活動をされていたようで、作品を二次創作的な解釈の材料としようとする傾向が強いと思われます。この点についてskripkaさんは、当該記事のコメント欄で以下のように述べられています。

昨今のアニメ業界に蔓延する違和感は、リテラシーの問題というよりも、視聴者が、アニメを観る根源的な楽しさから離れてしまっている風潮と、むしろ不可分なような気がします。その風潮とは、もはや作品には、自分達が遊ぶためのテンプレートとしての意味しか求めてないということです。プロット重視というか、作品の中でキャラの行動の動機や目的が明確に規定されてしまうと、自分達が遊ぶ余地がなくなります。従って、ストーリやドラマは二の次となり、ものすごく広がりがあってドラマの帰結の曖昧な作品が持てはやされることに繋がるというわけです。
あんよさんは、作品への愛から過剰な読み込みをすることによって、作品の新しい魅力を引き出そうとしてるわけですが、果たしてその作品に関わってる時間全体のどこかに、推理小説の謎が解けるときの爽快感のような、寅さんの失恋がわかったときに感じる深い同情心のような物を感じられるカタルシスの瞬間があるか? 考えるべき問題だと思います。

最後に、繰返しますがこれはあんよさんの解釈を否定するものでは全くありません。作品の楽しみ方の可能性はあらゆる方向に開かれているべきだと思います。ただ、こっちの領域に踏み込んでこないでくれ、ということです。

さて、たまったアニメを消化せねば・・・

しまった!!! ですます調で書いてしまった! まあいっか。