第7話 「ちゃんと言って、ここに書いて」

何が気にくわないのだか自分でもよくわからないのだが、話が盛り上がれば盛り上がるほどどうでもよくなってきている自分がいる。序盤に感じていたような曖昧さはなくなって、構成や演出の方向性がはっきりとわかるようになってきたにも関わらず。

一つの答えとして僕の見たい世界というのはうる星やつら的な永遠の片思いのユートピアであって、欲望うずまく生のラブストーリーではないのではない、というのが考えられる。この作品ではそのような片思いの幸福は描かれていない。例えば今回の乃絵の感情の変化は、視聴者にとっても本人にとっても曖昧だった片思いから、明示的な両思いへの変化であって、そこにはうる星やつら的作品では中心的であるな明示的な片思いに留まる幸福という過程が描かれていない。他のキャラの描写においても同様で、この作品で中心的なのは片思いであることの幸福というよりは片思いであることの苦しさ、不安さというもの、つまり普通の現実での片思いのありかただといえる。

もちろんそれは現実に近い描写として感動を生むわけであるが、その片思いの苦しさから脱却して十全な幸福に至るという過程は、うる星やつら的な世界観をあえて肯定して大人になることを拒否する僕のような人間がはじめから拒否しているものである。むしろいい年してアニメを見ている理由は、大人になってしまう前の過渡的状態の中に、まだなにか新しいものを発見できるのではないかという確固とした期待がある(ような気がする)からである。だからこの作品に描かれているテーマは、そもそも僕がアニメの中に求めているものとまったく違う。結局のところ作品の内容にカテゴリカルな拒否感があったということだといえる。

ということが正しければ、このようなアニメの表現手法としては優れている作品を拒否する自分は、アニメの表現手法に愛着があるからアニメを見続けているのではなく、アニメで頻繁に描かれているテーマに対する愛着があるからアニメを見続けている、という自己分析が成り立つ。

とはいえアニメの表現手法にまったく愛着がない、というのは自分の直感とは反する。しかしこういった自己分析をして、作品に対する自分の嗜好の影響というのははっきり認識しておかなければ、いずれにせよ作品の表現手法について語ることは不毛なものになってしまうように思う。