らき☆すたの(非)自己言及的メタ構造

らき☆すたがある種のメタフィクションであるのは自明のことであるが、そう言ったときの「メタフィクション」が何を意味してるのかはあまり自明ではないように思う。ここではメタ構造のあり方の一側面を明らかにし、らき☆すたの本質に迫ってみたい。

「メタ」とは?
「メタ〜」といったときに意味されてるのは、「上位の〜」または「〜についての〜」といったことである。例えば「メタ言語」は「上位の言語」「言語についての言語」ということ。例えば、「『犬』は名詞である」という表現は、日本語と言う言語について説明している日本語だから、日本語の上位に属するメタ言語だということができる。

こんな説明だけでは全くもって不十分なのだが、ここでは細部には立ち入らない。

「メタフィクション」の曖昧さ
「メタ」と言う接頭辞の最もよく使われる例の一つである「メタフィクション」と言う語は「メタ言語」に比べると意味が極めて曖昧で、パラフレーズすると「メタ構造をもったフィクション」ということなのだが、「メタ構造」が何なのかはその語だけからは全くわからない。(あまり無用心に使うべき語ではないと思う。)

Wikipedia日本語版の「メタ」の項では、メタフィクションの典型的な仕掛けの例として次のものを挙げている。


  • 小説を書く人物に関する小説。
  • 小説を読む人物に関する小説。
  • 表題、文章の区切り、プロットといったストーリーの約束事に触れるストーリー。
  • 通常と異なる順序で読むことができる非線形小説。
  • ストーリーに注釈を入れつつストーリーを進める叙述的脚注。
  • 著者が登場する小説。
  • ストーリーに対する読者の反応を予想するストーリー。
  • ストーリーの登場人物に期待される行動であるが故にその行動をとる登場人物。
  • 自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物(第四の壁を破る、とも言う)。
  • フィクション内フィクション。

■自己言及的メタ構造と非自己言及的メタ構造
これらの仕掛けを見ていくと、その仕掛けによって作品の虚構の現実性が必然的に損なわれるものと、そうでないものがあるのがわかる。後者の例から見ていくと、「フィクション内フィクション」や「著者が登場する小説」は、それだけではフィクションがフィクションであることを暴露しない。フィクションの中にフィクションがあるのは、現実の中にフィクションがあるのと平行した現象で、虚構の現実らしさを損なわない。著者が登場しても、それはフィクション内に存在する、作者とは独立の人間として考えられる限りは、普通の登場人物と同様にとらえられる。

一方で、フィクションの虚構性を暴く仕掛けとしては、「自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物」や「表題、文章の区切り、プロットといったストーリーの約束事に触れるストーリー」がある。前者は文字通りフィクション内でそのフィクションが虚構であることを明らかにするし、後者は作品自体の構造に言及し、作品が虚構として作られたものであることを、フィクション内で明らかにする。

フィクションがフィクションであることを暴くと言うのは、つまりフィクション内でそのフィクション自身に言及すると言うことで、これを自己言及的な仕掛けと呼び、そのような仕掛けのある作品構造を、自己言及的メタ構造と呼ぼうと思う。逆にメタな仕掛けが、メタ構造を持っているのにも関わらず、そのフィクションの現実性を損なわない仕掛けを、非自己言及的な仕掛けと呼び、そのような仕掛けのある作品構造を、非自己言及的メタ構造と呼ぼうと思う。

物語におけるメタ構造の基本的価値
次にメタ構造の存在価値について述べるが、基本的な物語のあり方としては、メタ構造は否定されるべきものである。物語の基本的な受容の仕方と言うのは、作品世界に感情移入し、虚構があたかも現実であるかのように感じ、物語を体験することにある。しかしメタ構造は、一般にはその作品のフィクションの世界に、違った次元の現実の要素を持ち込むことにより、そのフィクションの完全性、つまり唯一の現実らしさを破壊する。これは基本的な物語の受容の仕方を乱すことであり、認められるべきではない。

なお、この価値判断は物語が一次元的な虚構を描くのが当然であると言う常識に基づいているだけで、その優劣について語ってるわけでもなければ、個人的な好みについて語ってるものでもない。

メタ構造の自己弁護的な利用
その基本的な物語の価値基準の延長線上にあり、ある意味非難されるべきなのが、メタ構造を作品の出来の悪さの言い分けに利用することである。例えばマンガのコマの外に「なんちゅー強引な展開」と書いたり、「デッサン狂ってる」と書いたりして、自分の技術や努力のなさを弁護することである。これらは元の出来が悪いのは仕方ないにしても、作品の感情移入の可能性を犠牲にして自分自身の自尊心を守ろうとしてるのだから、作品の優劣を語る上で、否定されるべきものである。

例えば、高橋留美子のマンガは、コマの外の落書きや突っ込みが一切なく、作品自身に対する言及もまったくないのみならず、単行本冒頭の作者のメッセージすらないことから、このような価値基準を自覚的に持っているように思われる。

もちろん、その仕掛けの目的が作者と読者のコミュニケーションにある場合は、その目的は達成してるから悪いとはいえないし、次項のようにメタ構造を積極的に活用してる場合もあるから、一概には言えない。

メタ構造の積極的な活用
もちろん、メタ構造を積極的に活用した作品は、らき☆すただけでなく現代には掃いて捨てるほどあり、その価値も認められるべきである。先に引用したWikipediaの項でも「メタフィクションは、それが作り話であることを意図的に読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。」とあり、まったくその通りで、その含意は広大なものだと言わねばならない。

らき☆すたの本編の非自己言及的メタ構造
らき☆すたの本編やパロディー、EDなどの、後述のらっきー☆ちゃんねるを除いた全ての部分(以下らき☆すた本編)のメタな仕掛けを見ていくと、意外にもそこには自己言及的な仕掛けが(恐らく)全然ないことに気付く。こなたたち主要登場人物は、多くの視聴者が属するオタクや作品自身のジャンルであるオタク系の文化について話をするが、らき☆すた自体について言及したことはない。こなたはこなたの声優が歌っていると言う設定のコンサートに行くが、それでも虚構世界の現実らしさが構造的に損なわれるわけではない。

多作品の放送が行われていたり、多作品のグッズが画面に現れたりしていて、それは確かに視聴者の現実とリンクするわけだが、それでもらき☆すたの世界が独立して存在するという事実には矛盾しない。白石EDにしても、EDにおいては一切自分がフィクションの登場人物であるという事実に言及していない。自己言及的になることなく、奇妙な世界ではあるが完全なフィクションが作られていると言うべきである。

つまりらき☆すた本編においては自己言及的な構造が存在せず、フィクションとしての完全性を阻害されることなく、普通の作品のように感情移入が可能な仕方で受容することができるということである。もちろん、当然出てくる帰結であるが、自己弁護的なメタ構造の利用は一切行われていない。

これは作品から受けた印象からすると奇妙な結論かもしれない。作品には視聴者自身の現実を思わせるパロディ等がたくさんあったはずである。それでも、メタ構造はあっても自己言及的なメタ構造が存在しないことは、ある種の完全性として、作品から受ける印象に影響を与えてはいなかっただろうか。

らっきー☆ちゃんねるの自己言及的メタ構造
らっきー☆ちゃんねるは、感想サイトなどを見ていると、面白さがわからないという意見が多かった。しかし、これも自己言及的なメタ構造か否かという視点で見ると、その特徴が明らかになってくる。

らっきー☆ちゃんねるは、言うまでもないが露骨に自己言及的で、極めて積極的にメタ構造が活用されている。そもそも中の人自身がキャラとして登場していて、らき☆すたに関するラジオ番組と言う設定であるという時点で自己言及的である。本編に言及するのは、らっきー☆ちゃんねるらき☆すたの一部であると言う点では自分自身が虚構であると宣言しており、自己言及的だといえるし、常に自分達のアニメキャラと言うフィクションの設定を否定して中の人の話になっていく様は、自己言及のスパイラルといえるほどである。結局は白石は実写で登場したわけで、これはもうアニメキャラとしての自分が虚構の登場人物だと開き直って宣言しているようなものである。

恐らくらっきー☆ちゃんねるの楽しみ方は、徹底的に自己言及的なメタレベルを上昇していくドライブ感を楽しむと言うものである。これは構造的には楽屋オチと大差ないが、そのメタレベルの上昇の徹底性において、やはり特別なものだと見るべきものである。

まとめ
このようにらき☆すたメタフィクションとしてのあり方は、らっきー☆ちゃんねる自己言及的メタ構造と、本編の非自己言及的メタ構造として、より明確にとらえられるのではないかと思う。それぞれのメタ構造の(非)自己言及性が徹底してるところに、京アニのこだわりを見ることができるし、作品がこれほどまでに話題になった原因もあると思うのだが、どうだろうか。

参考:
アニメにおける「秩序」(らき☆すたの分析の準備として) - のともえ(仮)

私的らき☆すた論争まとめ - のともえ(仮)