第19話 「火花散る散るバレンタイン」

序詞という古典用語がある。和歌においてある語句を導き出すための前置きに使われることばのこと。例えば万葉集から、


娘子らが 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我れは
(をとめらが そでふるやまの みづかきの ひさしきときゆ おもひきわれは)
柿本人麻呂
口語訳:少女たちが袖をふる山(袖布留山)の古い神社の垣のように、ずっと昔からあなたのことを思っていました。
この場合、上の句の「瑞垣」までが、「久しき時」を導き出すための序詞であるといわれる。この歌において言いたいことはあなたをずっと思っていたということで、序詞は単にその垣が古くからあることから、好きだった時間の長さの例えになるという役目しか担っていない。言いたいことは下の句だけで言われている。この歌の序詞はまだ比喩としての役目をいくらか担っているが、歌によってはほとんど意味的に重要性がないものもある。また、長歌において半分以上が序詞で占められている場合もある。あまり知識はないので学術的にどうなのかは知らないが、序詞は歌の内容の論理的な補強にはなっておらず、歌全体の音調の調整や、喚起されるイメージを豊かにするなどの目的で使われているものだと思う。

なぜ突然こんな話をはじめたからといえば、今回の構成が正にこの序詞的な効果を活用しているように思えたから。

今回の話の大半は一昔前のギャグマンがのような雰囲気で、しかし演出は押さえ気味で、非常にほのぼのとした感じで見れるものだった。特に三郎と次郎とエメレンチアのトリオは、どろどろした関係の全くない家庭的な雰囲気があって心休まるものだった。何気なく日本のバレンタインデーの説明をしてるところなんか特に。絶品だったのはエメレンチアが自分の作ったチョコを試食するシーンで、静かなエメレンチアの性格に非常によくあったものだった。全体的にこれまでの空気といくらか齟齬はったが、派手なことはやっていないのでそれほど気にならない。

そうやって生徒会のバレンタインイベントなんかもあってほのぼのと楽しんで、今日はいい気分で寝れるかなあとか思いながらラストが近づいてきた時に、絢子の「エメレンチアは内気な女の子を演じたのね」と何も知らないが故に残酷なセリフを言うシーンから一気に緊張が高まり、そこから怒涛の神演出でエメレンチアの告白シーン。さすがにこれはホントに感動した。

このシーンがそれまでの軽いギャグの雰囲気と齟齬を起こしそうなものだが、それが全然感じられなかったのが不思議に思った。そこで序詞というのを思い出した。そのシーンまでのほのぼのとした話は、このシーンを論理的に補強するものではない。しかし別にギャグの種類はなんでもよくて、重要なのは日常的な空気が当たり前のように存在することをそのシーンまでに見せることによって、また一方でラストシーンを一応は−垣が古いことと好きだった時間が長いことの関連性程度に−それまでのシーンとつじつまの合うものにして、ほんの短時間の最も見せたいラストシーンの非日常性を強調することだったのではないかと。要は日常的な毎日の幸せの延長線上に、この修羅が待っているということを、両者の圧倒的な時間差のある構成で示したのではないかと思う。

これは「久しき時ゆ 思ひき我れは」ということを言うためだけのために、それより長い「娘子らが 袖布留山の 瑞垣の」を論理的な強調としては破綻してるのに関わらず使う序詞と同一見せ方のように思ったわけです。

この方式で行けば短歌の五七五七七の形式と、アニメのAパート約10分Bパート約10分という形式を関連付けて考えることもできそう。

考えすぎか。考えすぎだよなあ。

シナリオ:山田由香 絵コンテ・演出:岡村正弘 作画監督:烏 宏明/谷川亮介