アニメの面白さの説明の形式(草稿)

アニメの面白さ、より一般に物語の面白さの説明はどのような形式を取りうるか、という問題。

この記事は一応、アニメにおける「秩序」(らき☆すたの分析の準備として) - のともえ(仮)の続きになる。(が、読み返してみたら文体も内容も支離滅裂なシロモノで面白くないので読まなくていいです。支離滅裂なのは時として面白いけど僕は遠慮しすぎだった。もっと基地外街道を突っ走っていれば何ものかにはなったんじゃないかと思うと悔やまれる。)

さて、そこで僕は「アニメにおける要素的なもの」を次のように定義づけている。

アニメにおける要素的なものといえば、「声優」「脚本」「脚本家」「絵コンテ」「制作会社」「各シーン」「オープニング」「キャラクター」「テーマ」など抽象のレベルが均一でないいろいろなものが思いつきますが、とりあえずここではこのような要素をすべて、「アニメにおける秩序づけらうる要素」としておく。

このときに自分が言いたかったことを、今はもっと明晰に語ることが出来る。

僕の最終目的として、アニメを見て面白さを感じたり感動するといったことに体系的な説明を与えたいというものがあった。その際に、アニメに関するもので、ある種の要素は作品の面白さにとって本質的で、ある種の要素は作品の面白さにとって本質的でない、という直感があった。例えば、声優の演技力は明らかにアニメの面白さに本質的に貢献しているが、声優自信の容姿はそうだとはいえない。僕がやりたかったことは、まず第一にそういった本質的にアニメに貢献している要素とそうでない要素を区別する言葉を探すことだったと言える。

これは今や非常に簡単な言葉で行うことが出来る。

面白さや感動、または特定のキャラの魅力や作品の雰囲気でもなんでもいいが、そういった説明を与えたいことは、「このアニメは面白い」「このアニメの雰囲気は暖かい」といった文で表せるものである。それを「q」だとする。(「p,q,r,...」は任意の文を表す)

次に、「xはyに貢献している」という関係C(xとyは文)があったとき、「pCq」(pはqに貢献している)が成り立つような「p」が存在するが、そのpという文は「F(a)」(aはFである)という仕方で分解される(「a,b,c,...」は任意の要素、「F,G,H,...」は任意の述語を表す)。pは例えば、「この声優の演技は上手い」「このシーンの作画は素晴らしい」といったものが当てはまるだろう。

そのようなaに当てはまる全てのものが、例えば「このアニメは面白い」といった事実pに対して本質的に貢献している要素である。

が、文を主語と述語に分解したのは「アニメにおける要素的なもの」とは何かという問いに答えを出したかったからであって、特に必要がなければそこまでせず、pやqの段階で説明を留めておいていいだろう。

そのようなpを全て表すことが出来ればqに貢献している事態の全てが表されたことになる。しかしこれではqの完全な説明とは言えない。pになり得る文の間の関係が不明瞭だからである。

つまり、「キャラAの作画が良い」と「キャラAがかわいい」がそれぞれ「このアニメは面白い」に貢献していることはわかるが、「キャラAの作画が良い」と「キャラAがかわいい」の間の関係は不明瞭である。

しかし、その関係も、「『xはyに貢献している』という関係C」で捉えることができるだろう。例えば「『キャラAの作画が良い』は「キャラAがかわいい』に貢献している」とか、「『このシーンはキャラAの過去を十全に描いている」は「物語に深みがある」に貢献している」などということができる。

この関係は推移的である。例えば、「『キャラAの作画が良い』は『キャラAがかわいい』に貢献している」の『キャラAがかわいい』は「『キャラAがかわいい』が『作品がキュートな雰囲気である』に貢献している。」という文の部分になることが出来る。そして、そのように『xはyに貢献している』が成立すれば『yはzに貢献している』が成立する、ということが常に成り立つ。

というわけで、面白さなどの事態qの完全な説明を得るためには、『xはyに貢献しているという関係C』のyにqが当てはまるような文を全て列挙し、また、その際ののxをrとすると、それにも同様に「『xはyに貢献しているという関係C』のyにrが当てはまるような文を全て列挙し...ということを繰り返していけばいいと思われる。

そのようにして得られた全ての文のそれぞれを要素とする集合を、仮に、qの「説明集合」と呼ぼう。説明集合は面白さなどの事態qの理由を説明する文の全てである。

別の言い方をすれば、『xはyに貢献しているという関係C』は「順序集合」(strict order)であり、最終的に説明したい要素はその順序におけるgreatest(日本語訳は「上限」?)な要素であるということができる。

そこで、面白さなどの事態qの「妥当な」説明とは、説明集合のメンバーであるような説明であるということができる。

この考え方によれば、「作画がいいからこのアニメは面白い」が妥当であるためには、その文が説明集合のメンバーである必要がある。そしてその文が説明集合のメンバーであるためには、『「作画がいい」は「このアニメは面白い」に貢献している」という文が正しいか、もしくは、「作画がいい」と「このアニメは面白い」を繋ぐような貢献の関係が成り立っている(「作画がいい」がleastで「このアニメは面白い」がgreatestであるような順序集合が『xはyに貢献しているという関係C』の部分集合である)必要がある。前者は自然な推論であるとはいえないから、「作画がいいからこのアニメは面白い」についていえば後者の関係が成り立っている必要がある。

ここからわかることは、「作画がいいからこのアニメは面白い」という推論はが妥当であると理解するためには、「「作画がいい」と「このアニメは面白い」を繋ぐような貢献の関係」が理解されていなければならないということである。

このように「作画がいいからこのアニメは面白い」といった文に対する直感について明晰な説明を与えることが出来ることが、アニメなどの面白さの説明を形式的にとらえることのメリットの一つである。

元記事に理解の助けになりそうな図があったので、再掲しておく。


 1 = 作品
2A = キャラクター
2B = 物語
3A = 声優
3B = キャラ作画
3C = キャラ設定
(3'A〜3'C = 物語の構成要素)

追記:
ブクマコメントにレス。(他のブクマして頂いている人たちも含めてありがとうございます)

mae-9 mae-9 anime 似たようなことをムックの原稿書いてたときに悩んだ。でもブログに上げるようなもの(ある程度「公益性」を度外視していいもの)についてはもう少し違った作法の検討があってもよいのかも、とり思ったりも。

これだけからは言いたいことがはっきりとはわからないけど、「ブログのようなインフォーマルな場では厳密な議論は必要ない」という主張だと解釈する。

しかし僕の意見は逆で、むしろインフォーマルな場でこそ、議論の形式性を把握しておくことが重要だと考える。

アニメの面白さを説明する際には、まず絵が上手いとか構図が適切だとか、基本的には直感に頼って行う判断があって、それらを組み合わせることによってアニメ全体の面白さの理由を説明する、という道をたどると思う。そして、直観的な判断は直感に頼るしかないけど、その「組み合わせ方」については少なくとも部分的にはいつも同じ手続きで行われると考えられる。

一般のアニメの面白さの説明では、そのいつも同じ手続きで行われる部分と、直感に頼って行う判断が同じように取り扱われていて、その両方に思考の労力が払われてしまっている。だから、その同じ手続きで行われる部分を、予め把握しておくことは、思考のエコノミーになるはずである。その同じ手続きで行われる部分はある種の推論であるが、推論のパターンを論じる際は、(ある程度の知識は前提とされるが)論理学的な手法がもっともエコノミカルであると考えられる。

だから、インフォーマルな場では思考が楽な方がいいだろうから、同じ手続きで行われる部分を形式的に把握しておくことは望ましいだろう。

という話は自分でも何について話してるのか、何のために話してるのかよくわからずに、雲を掴むような状態で行っているので、まあ、話半分で受け取って下さい。