第13話「君の涙を」

予想以上でも以下でもない感動的なラストだった。前回までにキャラクターたちの感情の積み上げや成長は十二分に描かれてしまってるわけで、あとは普通にまとめればまともなラストになるという話。ベタなところは徹底的にベタなのがこのシリーズらしい。(真正面のアップの多用や大胆な俯瞰などテクニカルな面ではベタとはいえないだろうが)

しかしこの感動の原因を考えようとするとどうしてもキャラたちの心情の変化や成長を視聴者に納得させるための表現が不十分なような気がしてならない。このアニメは描写から説明性を極力廃してるため、重要なシーンを感覚的には覚えていても、意識的な記憶に残らないことが多いんじゃないかと思う。まあ評論家ならばそういうのを覚えていなきゃいけないんだろうが、一般視聴者としては感動したという事実だけで十分だろう。

全体としてはキャラクターの成長がきちんと描かれているのが印象に残った。それがなければ単なるクオリティの高い昼ドラでしかなかったと思う。乃絵、愛子、三代吉、眞一朗、それぞれがそれの仕方で成長しているのが、説明的な表現ではなく感覚的に理解できる表現で描かれている。一例を挙げれば今回の最後の風に吹かれる横顔の乃絵は、序盤の子供じみた印象からは遠く離れた大人の「女」としての印象を受けるものだった。

比呂美はあまり成長したようには見えないが、これは成長しない女の「純粋さ」を描いたものだと思う。成長すると言うことは痛みを感じることであって、痛みに耐えることを覚えてしまったらその女性は純粋さを失ってしまう。純粋さを保つためには耐えることを知ってはいけない。もちろん痛みに耐えることによって得られるものもある。この作品ではそれは乃絵が痛みを乗り越えることによって得たものだろう。それに対して比呂美は大して苦労したようには見えない。わがままを貫いていたら好きな人が自分を振り向いてくれたというだけのように見える。それはあまり倫理的に好ましいことではないが、だからこそそこに見える美しさもある。

そういった乃絵と比呂美の違いはそれぞれの「涙」のあり方に端的に表れていると思う。比呂美の「涙」はシリーズ内で何度も描かれている。そんなにポンポン泣いてしまってはタイトルの有り難みもなくなりそうなものだが、そうでもない。いくら大安売りでも比呂美は本気で泣いているのであって、つまりその涙は「真の涙」であり、決して価値のないものではない。比呂美は純粋だから、本当の涙を簡単に流してしまうのである。つまりその涙は純粋さの象徴である。

それに対して乃絵の「涙」は決して大安売りではない。正反対である。乃絵の涙は突き刺されるような苦しみに耐え、受け入れ、どこまでも自分をごまかした果てに見ざるを得なくなった本当の自分の流す「涙」である。つまりその涙は比呂美のように安易に流れる涙ではなく、涙を流す=本当の自分をみつめる以外のあらゆる選択を試みた上での結論であり、その涙の背後にはそれが唯一の選択でありそれ以外は存在しないという確固とした前提が横たわっている。それは諦めであるが、諦めて本当の自分を知ることは成長でもある。だから乃絵の涙は好意的に見れば「成長」を示す涙である。

つまり、比呂美の涙は「純粋」を表し、乃絵の涙は「成長」を表している。これはこの二人の「女」としてのあり方をそのまま表しているといえるだろう。かごの鳥の中で育った「純粋」な女性と数々の苦しみを乗り越えて「成長」した女性、どちらが魅力的か? という問題はアニメの領域を越えた普遍的な問題であり、とても恋愛も人生も未熟な僕には扱いかねる問題だが、アニメでそういった問題が核心的に描かれたと言うことはアニメファンとしては非常に歓迎すべきことだと思う。