第11話 「メザメ」

追記:書いていたらエラく長くなった。内容は結構適当なのであんまり鵜呑みにしないように。というか誰も読まないだろうけど。

最初は単なるオサレ系とみなして軽視してたこのシリーズも、今になってみれば正当かつ周到極まりない作りに一瞬たりとも気を抜いて見れない最重要作品になってしまった。見返せばいくらでも発見があるこの作品だが、ここでは誤読を恐れずファーストインプレッションで語っていこうと思う。

■一点透視図法と消失点による強調
さて、今回目についたのは(絵の知識など皆無なので間違ってるかもしれないが)、「一点透視図法」を利用した構図とそのの「消失点」を利用した強調だろう。「一点透視図法」とはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で天井その他の室内の線をのばしていくとキリストのこめかみに集中するというアレである。その集中する点のことを「消失点」と呼ぶ。消失点は画面中の線が集中するために画面の中でもっとも目立つポイントになる。(強調は副次的な効果でこの技法の本来の目的は立体を正確に描くことである。)

文歌の病室に人が入ってくる数度のシーンでは入ってくる人が必ずこの技法によって強調されていたし、病院の屋上の会話シーンも物干し竿の線が会話中のチアキたちの中心に向かっていた。フミカが病院に降り立つシーンでは物干し竿による消失点がフミカの着地点を示していたような気がするし、他にもいろいろ使われていた。

この消失点による強調は、もちろん単なる物語における役割の強調といった効果もある。しかし今回のシゴフミでは「画面内のキャラクターの位置」が重要な役割を果たしていて、むしろそれをより明確に示すために使われていたように思える。次にこの技法や他の方法を使いながらどのように作品のテーマが描かれていたかを見ていきたい。

■文歌の「無垢」
まず、画面の中心の超アップで描かれる「目覚め」のシーン。これは目覚めたことによる内面の戸惑いを視聴者に印象づけるためのアップといっていいだろう。前回はなんだかわからなかったサブタイの意味も、今回はあっという間にわかるようになっている。(しかし、これは罠である。これについては後述する。)

次に今回の話の前半ではとにかく目覚めた文歌が中央(「画面の中央」と「部屋の中央」を含む中心に描かれた正面か真後ろの垂直な構図のことをこう呼ぶことにする)に描かれることが多かった。ほぼずっと中央で描かれ続けたのが夏香の家での食事シーンで、次のゲームをしているシーン、夏香の部屋(だったか?)にいるシーン。それ以外にも顔を「真横」から捉えたカットもいくつかあった。序盤の彼女の近さを持った描かれ方は基本的には「中央」か「真横」で、後はロングの場合に普通にいろいろな構図が使われるということだったと思う。

これはさしあたって「目覚め」たばかりの「無垢」を表しているといっていいだろう。正面や真横からの構図は未開民族の絵がそういった構図しか使わないように、非常にプリミティブな印象を与える。これにより普通に斜めの構図も使って描かれる他のキャラクターとの対比が際だつことになる。また、病院のシーンと食事のシーン共に文歌と他のキャラクターたちが同時に描かれることが極端に少なかったこともその対比を強めているといえる。

また、他のブログでも似たような意見を見かけような気がするが、「白」のイメージも「無垢」を強調するのに役立っていると言えるだろう。病院内でこれでもかと強調される窓から差し込む光の白さ、はためくシーツの白さ、スキヤキの中央の豆腐の白さ。病院での文歌の服も、彼女の肌の色も白い。

■フミカの「罪」
さて文歌は「無垢」であったが、「フミカ」の方はどうであろうか。まず最初のお見舞いのシーンにはそもそも彼女はいない。そしてその後も「中央」に描かれることはない。例えば病院の屋上に降りてくるシーン、物干し竿による消失点に向かって降りていくのだが、降りる前にカットは切り替わってしまう。次に病室に着いたシーン。先ほども言ったように病室の入り口で廊下を背景として消失点の位置にいるフミカが描かれるが、その位置は画面の中央から大きく右にずれている。「港の方の街」で配達直後にこちらを歩いてくるシーン、または電話機の前で電話帳をめくっているカットにおいても、隣にカナカがいるから不自然ではないものの、「中央」からはずらされてしまっている。まったくないわけではないが、ラストのシーンの前ではフミカはほとんど「中央」に描かれることはなく、むしろそこから外されてしまっているように見える。

これは「無垢」に対する「不純」つまり「罪」を表していると言える。もちろん罪を表す色は「黒」である。例えばフミカの服の黒さ。また、フミカが病院を訪ねたときは文歌のいたときと違っての「光」の意味が変容させられてることにも注意するべきである。昼間の病院は光の差し込む部屋は薄い青で描かれており「清浄」な印象を受けるものだったが、夕暮れの病院は光に大して「黒」く描かれており、この場合の光は闇を強調する光になってしまっている。ここでは場所が同じであるにも関わらず、というか同じだからこそ強調されるフミカの「闇」が描かれている。(さらに夏香の家のベッドに横になっている文歌のシーンは、「夜」であるにも関わらず昼間の病院と同様に薄い青を基調に描かれていて、「清浄」な印象である。)

つまり今回のシゴフミでは一点透視方を利用した構図と色彩のイメージによって文歌の「無垢」とフミカの「罪」が鮮やかに描かれていたのである。この対比を見る上で次のシーンを忘れてはいけない。フミカが病室を訪れて文歌の不在を確認するシーンである。ここではフミカの主観にカメラが重ねられているが、不思議なことにフミカはすぐにベッドに目をやらず最初に飛び込んできた視界のまま一旦視線を停止する。ここで天井などの線から予測される消失点の位置が、ベッドの右の「日の当たってる部分に人が立っていた場合にちょうど顔がくる位置」に向かっていることに注目するべきである。普通に考えれば病室を訪ねたらすぐにベッドに目を向けるものであるが、それにも関わらずそこにフミカが目をやって視線が停止したということは、「そこに誰かが立っていることを期待した」ということである。その場所とはもちろん「光の当たる場所」である。視線をどこにやるかなどということは意識的に行うことではなく無意識的なものだから、ここではフミカが「文歌が光のある位置に立っているはずだ」という期待を無意識にしたことが表されている。つまりここではフミカの文歌に対する「罪」の意識が、視線のやり方という無意識のレベルの行為によって効果的に描かれているのであり、視聴者の意識的な記憶にはほとんど残らないシーンかもしれないが、無意識に残るイメージとしては非常に強いものだと思う。

■文歌の「揺らぎ」
さて序盤の文歌は「無垢」のイメージで捉えられていたが、そのイメージは実際にはAパート全体に渡って徐々に揺らいでいく。最初は病院の単調な色彩の中で先ほども言ったような正面と真横の構図で描かれていたのだが、その後には夏香の家のカラフルな色彩の中でそのような構図で描かれることになる。また、着てる服の色も「白」から「緑」に変わっている。

この変化は「無垢」に対する「躍動する生命力」、すなわち「死」に対する「生」、または「静」に対する「動」ととらえられる変化だといえる。先ほどいったフミカとの比較では「無垢」に対して「罪」という道徳的な対比が描かれていたわけだが、この場合は安定し静止した状態から動きのある状態へという、生命感の有無による対比が行われているということである。

そしてその生命感は負の方向に向かう激しさをもったものではなく、より安定した幸福を志向したものである。夏香の家の色彩(壁やカーテンなど)は淡い色彩で緩やかな幸福を感じさせるし、文歌の緑色の服はいうまでもなく安心感を与える色である。また特筆すべきは、夏香の部屋に文歌が立っている際に文歌の隣に置いてあるなんだかよくわからないかなり大きな「球」である。この「球」はなんだろうか。僕はよく知らないが、女の子の部屋にはああいった「球」が無造作に置いてあるのが普通なのだろうか。そうだとすれば自然であるが、そうでなければ不自然な描写である。いずれにせよ重要なのはその「球」が作り出すイメージである。彼女は実際にはあまりにも「死」に近いところにいて、その存在自体が「死」を喚起させるが、「球」はそれに対する安定した雰囲気を作り出すのに貢献している。「円」は安定を表すのである。球の下の円いマット、次のカットの壁の丸を書いた絵も同様な効果があるといえる。このような手法は絵画では珍しいことではなく、例えばクレーの「死と火」では死のイメージに対して円を対置し全体の安定感を維持している。(その絵をイメージ検索

もちろんその「安定」は人物の感情描写の面でも(というかこちらが主要な表現だが)十分に行われている。スキヤキをおいしいという文歌、ゲームをプレイして苦笑いをする文歌、これらは彼女の中で普通の女の子としての一面が表れ、「安定」へ向かってることを表している。

だが実際にはそれは本当の自分を見ずに得られた仮初めの安定でしかない。それはAパートの最後でベッドにつくシーンが非常に不安定な斜めの俯瞰の構図から描かれ、また斜めに見たのアップのカットが続いていることからわかる。これはこれまで「中央」で正面や真後ろからしか描かれなかった彼女が、もはや道徳的にも生命力という点でも「無垢」でないことを暗示する。ここでも特筆すべきはベッドの俯瞰の構図でベッドの横に置かれている電気スタンドだろう。これも「円」である。しかし今度のは先ほどの「球」の明るい色彩(実際は明るくもない色だが下のピンクのマットと合わせて考えればやはり最終的な印象としては明るいといえるだろう)から「黒」に変容してしまっている。これは彼女にとって安定をもたらすものがもはや「死んで」しまったことを示している。まるで真っ黒な電気スタンドがすべての安心を吸い取ってしまうように、彼女は不安を感じている、と言っても言い過ぎではないだろう。

さきほどこのシーンは「清浄」であると描いたが、その清浄のなかには、不安を感じる文歌と電気スタンドといった「闇」があることがわかる。「清浄」というのは道徳的には良いイメージしかないが、生命感という観点で言えば、「死」または「誕生の瞬間」といったアンビバレントなイメージを含むものである。だからこの「清浄」はその意味が「無垢」から「躍動する生命」の通過を背景に「死」のイメージへと変容する過程としての「清浄」だというべきである。

■文歌の「罪」の発見
次はその文歌の「死」のイメージが決定的になるシーンである。まず夏香が要と家を出るシーン。ここでは文歌の真正面からみた「無垢」を表す構図がドアを閉めることによって乱暴に「切断」される。これ以降はしばらく「中央」の構図は表れない。

さて次に文歌が夏香の部屋を見渡すシーンであるが、このシーンは見覚えがないだろうか。これはフミカが病室に来た時のシーンと類似したシーンである。しかし意味的には正反対なのである。まずベッドの配置が病室の場合は左、この場合は右と逆である。これはイメージ的な反転を示している。フミカの場合は、先ほどいったように「画面のの中央の光が当たる部分に誰かがいることを期待した」のであるが、この場合中央にあるのはあの「球」である。しかしこの「球」は逆光によって先ほどの電気スタンドと同様に「闇」に変容した「球」である。フミカが病室で光に当たる部分をにいるのを期待したのは、もちろん文歌であり、文歌はフミカにとって「光」のイメージすなわち「無垢」のイメージだといえるから、このシーンでこの闇に変容した「球」が表しているのは「罪」のイメージすなわち「フミカ」であり、文歌が期待、というか予想し手いるのは画面の中央に「闇」すなわち「罪」があること、すなわちフミカがいると言うことである。しかしこの「球」は実際には直前の視線の部屋の左への移動により、文歌の視線とはすれ違わない(その視線の移動は直後にスローで文歌の主観に重ねて繰り返される)なぜだろうか。この視線の移動も考えてみれば不自然である。この場合は、文歌は部屋の配置をよく知らないのだから、まず目に飛び込んできた視界を探索して、それから視線を移動するのが自然である。ここで思い出されるべきことは、フミカは病室でそのような視線の移動を行っていたということである。そして反対に、このシーンでの文歌の何かに気付いたような視線の移動は、フミカが病室でベッドに誰もいないことに驚くときにされるべきものだということである。錯綜してきたのでまとめると、フミカは「光の位置に文歌がいることを予想し、文歌が夏香の部屋で行うはずの視線の移動を行った」のであり、文歌は「闇の位置にフミカがいることを予想し、フミカが病室で行うはずの視線の移動を行った。」ということである。このようなイメージの「対比」「反復」「交換」などは単純に言って「二重人格」のイメージ的なリアリティを強めており、これは論理としてはかなりいい加減であるにも関わらず彼女たちの「二重人格」に現実味を感じられることの一つの理由だと思われる。

話がそれたが、文歌の「罪」の発見へ戻ろう。このシーンではフミカの病室のシーンとは違い、文歌は本当の自分、すなわち「罪」を背負った自分を発見する。あたかもフミカが見つけるはずだった文歌を、文歌が自分の罪として見つけてるかのようである。このシーンではもはや安定した構図はない。フラッシュバックを普通に使いながら、彼女の「罪」の発見が描かれていく。

彼女が街を走り回るシーン、オーソドックスな強い感情を表す表現の中に、一点透視法の消失点へ向かって走る構図が使われる。これまでは「無垢」だったから見えなかった自分の不完全さにはっきりと気付き、「完全性」を求めて走っているかのようである。ここでは彼女はフミカの居場所を知らないために、闇雲に走っていると考えるのが自然だが、そのような構図が使われてることも含めてまったく迷いがある印象は受けない。これは彼女たちが同一人物であるためにお互いのことをわかりあっているということの暗喩だろう。

■「二重人格」の解消
そして神社の階段の一番上で二人は出会う。この出会いのシーン、二人が同一人物であることを示すいくつかの表現がある。まず二人の目の総計が二つを超えないという点(変な言い方だが)。片眼ずつ描かれたシーンはあったが、それ以上に目の数があるカットはなかった。アニメにおいて人間の感情を最も強く司る器官は「目」であるから、これが一組以内である限り、イメージ的には二人であるという印象は受けない。次に「影」の使い方である。彼女たちが抱き合ってるシーンでは一度だけ俯瞰の構図が使われ、影があたかも一人分であるかのようにしか見えない。これは恐らく多くの人がちょっとした違和感を感じ、二人が実は一人であるということが印象づけられたんじゃないかと思う。さらに抱き合ってるシーンで二人の会話が途中から口が描かれなくなっていることにも注目するべきである。口が描かれない発話というのは、実際の声なのか心の声なのか区別がつかない。つまりここでは会話が実際の音声によって行われてるのか心の中で行われてるのかが決定できないのである。これによって二人が同一の内面を共有した同一人物であるような印象が強まる。

他に注意するべき点として、二人のそれぞれの背景の違いがある。フミカのバックは神社であり、文歌のバックは海である。これはそれぞれ「死」と「生命」または「罪」と「潔白」を表しており、それぞれの現在の立ち位置、またはこれから行く先を暗示しているといっていいだろう。

さて影の分離に象徴されながら二人の同一性は引き裂かれる。そしてここでフミカが銃を渡すカットで始めて、フミカはまともに真正面の中央の構図で描かれる。背景もほぼ左右対称であり、中央としての印象は強まっている。これは次の超アップのカットと合わせて、もちろん彼女の「決意」の強さの表現でもあるが、むしろフミカが「無垢」を表す地点である中央へと移動したとも捉えられる。そして次の文歌の構図が同一であることも相まって二人の区別はあまりつかなくなっている。つまりこの表現はフミカが「罪」を背負った自分を否定しているということを表しているのであり、フミカは既に観念的に死んでしまっているのである。だから文歌はあんなに求めていたフミカを撃つことをためらわなかったのである。ここにあるのは二人の「対立」というよりは「共謀」というべきであろう。

■Fumikaの「メザメ」
そしてフミカと文歌は一人になる。(一人になった彼女は名前の書きようがないのでとりあえず「Fumika」としておく。)Fumikaはこれまでの文歌ともフミカとも違い、自分の意志をはっきりと持っているように見える。夏香に対して器用に嘘をつくFumika、告訴したいと言うFumika、両方ともこれまでのフミカと文歌には見られなかった意志の強さが感じられる。そして両方の描写で中央に描かれるFumikaはもはや「無垢」でも「死」でもなく、「決意」の表現としてしかとられないように描かれている。これはまるで新しい自分に「目覚め」たかのようである。最初の方に今回の最初のシーンの目覚めがサブタイの表してることのように見えるのは罠だと書いた。それは最初のシーンで明確な「メザメ」を描いておいて、実際にはこちらのフミカと文歌のFumikaとしての「目覚め」の方がより強い印象を与える「メザメ」だという罠である。最初の「目覚め」は単なる生理的な目覚めに過ぎない。今度の「目覚め」は自分自身に向き合うという意味で、「無垢」や「罪を背負う自分」から抜け出して、「大人」へと登っていく(繰り返し描写された「階段」に象徴されるように)ことへの「決意」であるように、見えるのである。

■余談:要と夏香
この二人のサブストーリーも実に見事に構成的に組込まれて描かれていたが、イメージという点で注目すべきシーンが二つある。一つは夏香が要を送っていてカナカが駆けつけてくる直前の並んで歩いているシーン。ここでは一点透視法の消失点を中心に二人が配されていて、二人の関係の安定した強度が印象づけられる。次に文歌を探しに夏香の家にいて、文歌がいないことを確認するシーン。ここでは二人の間に「白くて丸い」椅子が描かれている。これは二人の関係が、フミカたちを取り巻く汚れた関係性に対して「潔白で安定」したものであることを示している、と言うのは考えすぎだろうか。