自分の好みは規定できるか

この件についての返答。どうも言いたいことが伝わっていなかったように思う。言葉足らずな点もあったようで申し訳ないです。

まず、僕が自分自身の好みを規定しているというしまうま技研さんの主張について。



僕の見たい世界というのはうる星やつら的な永遠の片思いのユートピアであって、欲望うずまく生のラブストーリーではない(notomoe)
これだけが氏の好みだとは思わないが、まず、観たいものがはっきりしている。 こう明確に自己規定してしまえば、確かに「true tears」は選から漏れてしまうだろう。

これは僕の嗜好であって、別に自分で規定したわけではない。しまうま技研さんの言う「規定」は、


作品をあるがままを受け入れ、良いところを評価したいと考えているので、そのあり方については規定しない。
からわかるように、するしないを選べるものであり、主体的に行うものである。僕が自分の見たいものを「規定」してるとすればそれは非意図的なものである。

次にしまうま技研さんの主張で気になるのは、「自己を規定しないこと」それ自体を規定だとはとらえられていないらしいことである。

例えば、僕がしまうま技研さんの主張に従ってリアルな恋愛描写を好きになると努力したとする。萌えアニメが好きな自分を押さえ込んで、リアルな恋愛を好きになろうと努力したとする。これは素直な自分を押さえ込むことであり、一種の自己規定である。つまり規定の否定はそれ自体規定だということ。

もししまうま技研さんがこういった規定の否定を自分自身に対して行われていて、それでも


そんな規定をしない私は、この作品を「素直に」楽しめるんだけど。
と言われるのならば、それは矛盾している。規定をしないという規定をした自分が規定されていない(素直である)という矛盾である。

この矛盾を取り除くためには、規定の否定それ自体を規定と認めているという前提が間違っているとしなければならない。つまりしまうま技研さんは規定の否定自体は規定だと認めていないということである。

僕は先ほど言ったように自分の好みに従ってるだけで自己規定をしておらず、さらに自分自身を規定しないように努めているが、その規定には規定を否定すると言うことも含まれてる。しまうま技研さんの場合はそうでないようである。

それはなぜかというと、アニメの視聴に対する態度が違うからだと思う。しまうま技研さんの態度は、


作品をあるがままを受け入れ、良いところを評価したいと考えているので、そのあり方については規定しない。 これがアニメに対する、私の基本的なスタンスだ。
というものである。作品のあるがままとは何かというのは哲学的な難しい問題だが、一つの考えとして、「多くの人が共通に感じる感じ方をすること」を「作品のあるがままに受け入れる」ととらえられると思う。そしてそのように作品を捉えるためには、できる限り自分の嗜好を排除して、より一般的な視聴者へと近づく努力が必要になる。つまりは自分自身の規定を排除するという規定をしなければならないと言うことである。

これに対して、僕の視聴目的は「作品に最大限に感情移入する」ことにあるような気がする。ここでは感情移入は「作品世界が現実世界であるかのような錯覚」と定義する。そう間違いではないと思う。そのような錯覚を得るためには、作品を虚構だと教えるような要素は一切排除しなければならない。つまりは、メタ作品的な情報を排除しなければならない。ニコ動のコメントなどは論外である。自分が作品をどのように見るか、という規定もメタ作品的な情報の一つとして排除しなければならない。そして規定の否定、つまり「何も考えないぞ」という思考も排除しなければならない。つまり自分自身の規定を排除するという規定は、感情移入を阻害するということである。

もっと具体的に言えば、僕の場合は一切の意識を排除しているから、作画が少し崩れた場合、すぐに「汚!」と反射的に思い、残りのシーンの出来如何に関わらずそのシーンが台無しになりうるが、規定をしないという規定を意識しながら見ている場合には「なんか汚いな。でも全体の受容には問題ないだろう。OK!」と言った思考が働き、そのシーン全体を台無しだと考えたりはしない。また、その逆に出来が素晴らしくいいときは僕の場合は十全な感情移入ができるが、規定をしないということを意識しながら見てる場合には、その意識が邪魔になって十全な感情移入ができない。これは極端な言い方であって現実にはこんな明晰な差は出ないと思うけれど、僕の言いたいのはこういうことである。

恐らく僕もしまうま技研さんもできることなら十全な感情移入をしながら作品を客観的に眺める視点を持ちたいと思っているが、両者は相容れないために、やむを得ずどちらかを優先してしまってると言うことだと思う。

もう一つ言うと、現実には僕も自己規定の否定を多く行ってきている。今の萌えオタとしての感受性を獲得するためにはそれはもう大量の自己否定を重ねてきた(僕は元々アニメなど敬遠するエセ現代思想ヲタであった。すなわち中二病)。そしてこれからも自分の世界を拡げるために多く行っていくことだろうと思う。ただし理想として、自分自身をどんな形でも一切規定せずに視聴するという素直な態度を忘れないでいたいと思っている

僕の主張をまとめると、まず自己規定をしないということそれ自体が自己規定であるということ。そしてどんな形であれ自己規定をすることは作品体験を外から眺めるもう一人の自分自身を作り出すことであり、感情移入を阻害すると言うことである。

これまで言ってきたことを元に次のしまうま技研さんの結論を認めた上で注釈を加えると、


作品を枠にはめて観るかどうか − これが氏と私の最も大きな相違点なのだと思う。
僕の「枠」は自分ではめたものではなく、自分の意図に関わらず存在するものである。また、「枠」をはずすことも枠をはめることと同様に枠に対する操作であり、枠から自由になっているわけではない、ということになる。

後は細かい点について。

true tears萌えアニメか? という問題は、部分的には萌えアニメ的な部分もあるけど、全体的には萌えアニメではない、という結論でいいと思う。「萌えアニメ」の定義をせずに言っているので漠然とした言い方ではあるけれど。

しまうま技研さんの「この作品の「萌え要素」が受け手に違和感を与えるほど方向性と乖離しているかというと、そんなことはないと思うのだが」という意見には同意する。全体の完成度という点では萌え要素はそれほど障害にはなっていない。僕が言っていたのは萌えアニメであることを期待させる作りであると言うことだけ。(追記:そうではなく僕は「作品のメッセージを不透明にしてしまう結果になってしまっていると思う。」と言っていた。これは僕の作品への嫌悪感が原因で筆が滑ってしまった結果だと今では思う。)


私はプレイボーイじゃありません。(笑)
だから「(もちろんアニメの話です。)」って書いたでしょ。そんなにも自分がプレイボーイでないことを主張したいのならば頭の片隅にとどめておこうと思います。ちなみに僕がプレイボーイかどうかは秘密です。人を見た目で判断してはいけません。