アニメにおける「秩序」(らき☆すたの分析の準備として)

私的らき☆すた論争まとめの続き。
この記事の最後に、僕はらき☆すたのパロディや実写EDなどの暴走っぷりが無秩序にしか見えない、と書いた。しかしアニメにおける「無秩序」というのはどういうことでしょうか。それを明らかにするために、まずアニメにおける「秩序」とは何かを考えてみたい。

■秩序づけられうる要素
まず秩序というのは複数の要素の間で成り立つものであり、秩序が成立するためには秩序づけられる複数の要素が必要。アニメにおける要素的なものといえば、「声優」「脚本」「脚本家」「絵コンテ」「制作会社」「各シーン」「オープニング」「キャラクター」「テーマ」など抽象のレベルが均一でないいろいろなものが思いつきますが、とりあえずここではこのような要素をすべて、「アニメにおける秩序づけらうる要素」としておく。内包的な定義は今のところ頭が悪いので思いつかないけれど、言っていることはわかるでしょう。

要素の組み合わせによってできあがるものも、「秩序づけられうる要素」に含める。例えば声優と作画とセリフの組み合わせによって「キャラクター」ができあがり、「キャラクター」と「物語」で(大雑把な言い方だが)「作品」ができあがる。「各シーン」の組み合わせで、「各話」ができあがる。この「キャラクター」「作品」「各話」も「秩序付けられうる要素」とする。

■「秩序」とは?
もっとも単純な例として、二要素間の秩序を考えてみる。「声優」と「キャラクター」の間に「秩序がある」といったとき、一体何が意味されているでしょうか。「秩序」をYahoo!辞書(大辞林)で調べてみると、


1 物事を行う場合の正しい順序・筋道。「―を立てて考える」

2 その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり。「学校の―を乱す」

とある。ここから少なくともわかるのは、秩序が成立するためには、要素間の関係が「正しい」とか「望まし」くある必要があるということ。声優とキャラクターの関係が「望ましい」「正しい」、というのはつまり声優の演技が上手いとか、キャラクターに合っているということで、これが両者の間に秩序が成立した状態だといえる。

同様にして、アニメのすべての要素間の関係には「正しい」「望ましい」状態というのがあり、それが成立すれば秩序があるといえる。キャラクターが望ましければ作品は良くなるし、各シーンがよければその話数は良くなる。これらの場合も秩序が成立しているといえるでしょう。

■各要素間の関係構造
その「秩序づけられうる要素」はどのような構造において関係付けられているのでしょうか。単純な例で考えてみる。「声優」「キャラ作画」「キャラ設定」「キャラクター」という要素があったとする。この中で存在する関係は「声優」「キャラ作画」「キャラ設定」それぞれが「キャラクター」を構成する要素となるという関係だけ。(「キャラ設定」は「キャラ作画」に影響を与えるが、この場合は両者の間に偶然的な関係しかない。今言ってるのは必然的な影響関係。(もしくは、間接的でなく直接的、というべきか))つまり「声優」「キャラ作画」「キャラ設定」それぞれはそれぞれの間の構成要素となることはなく、それぞれの間で結びついていない。また、「キャラクター」は「声優」「キャラ作画」「キャラ設定」のどれの構成要素にもならない。同様に「キャラクター」と「物語」は「作品」の構成要素となるが、「キャラクター」と「物語」それぞれはお互いの構成要素となることはなく、「作品」は「キャラクター」と「物語」の構成要素にはならない。

つまり、それらの要素は階層構造を成している。右の図に当てはめてみよう。


1 = 作品
2A = キャラクター
2B = 物語
3A = 声優
3B = キャラ作画
3C = キャラ設定
(3'A〜3'C = 物語の構成要素)

アニメにおける要素はすべてこのような仕方で階層構造にあてはめることができる。

注意するべきことは、このそれぞれの関係は一方的な関係だということ。声優がよければキャラクターはよくなるが、キャラクターがよくても声優の演技がうまくなるということはない。同様に各シーンが良ければその話数は優れたものとなるが、その話数が優れているから各シーンの出来がよくなるということもない。Wikipediaの「階層構造」の項にも「下層階に及ぼされた影響は、上層階にも及ぶが、その逆は起こらない」とある。

また、同記事の「階層構造を特徴づける性質は、高次の階層は、低次の階層が備える性質をすべて持っていることである。」ということもあてはまる。「声優」や「キャラ作画」はすぐ上層の「キャラクター」の構成要素であるが、同時に最上層の「作品」の構成要素でもあり、つまり「声優」や「キャラ作画」は「キャラクター」に媒介されて「作品」のよさに必然的に影響を与える。

■階層構造の主観性
これまでは「作品」を最上層にあるものとしてとらえてきたが、実際には「作品」自体は、例えば「論文」の目的は論文そのものではなく内容を伝えることにあるように、他の目的のために存在する空虚な要素にすぎない。実際に最上層にあるのは作品の究極目的。例えば娯楽作品は、人を楽しませることが目的なのだから、「楽しさ」が最上層に来て、他のすべての要素である物語やキャラクターなどはそれに奉仕するものだととらえられる。ドラゴンボールなら「勇気、友情、勝利」を描くことが目的なのだから、それが最上層に来て、他のすべての要素はそれに奉仕するものだとしてとらえられる。

この構造は作品そのものに存在するものではなく、制作者や受け手などのとらえ方によって変わる。例えば娯楽作品であるスターウォーズも、ハン・ソロを描くために存在している思う人にとっては、ハンソロが最上層にあり、他のストーリーや登場人物などの要素が下層にある階層構造が、その作品のあり方だといえる。ドラゴンボールも、もし作者がコメディを描きたかったとするなら、他の要素はコメディのために奉仕するものだととらえられているわけだし、読者がシリアスなストーリーを求めているなら、シリアスなストーリーであることが最上層に来る。つまりこの構造はあくまで主観的なとらえかたによるもので、客観的な関係ではありません。

さらに、この構造は必ずしも一つの作品において一つしかとらえられないとは限らない。スターウォーズの例でいえば、一人の人間が作品を娯楽としてとらえながら、同時にハン・ソロを見るための作品として同時にとらえるということが可能。また、エロアニメでは、その作品がストーリーを楽しめるものとしてとらえられていた場合、エロシーンとストーリー表現が別々の目的としてとらえられることが多い。この場合も二つの作品の究極目的をとらえているといえる。これらそれぞれ場合、二つの独立した階層構造がとらえられていることになる。

らき☆すたの部分的な秩序
ここまでにわかったのは、アニメにおける各要素は階層構造をなしており、それらの間で秩序があると言われるのは、それらの間の関係が望ましいものであるときだということ。つまり、「キャラクター」や「各シーン」「物語」などの各要素に秩序があると感じられるのは、それに属する各階層の各要素が一つ上の階層の要素に対して望ましい影響を与えているときであり、作品全体が秩序づけられていると感じられるのは、最上層を除くすべての要素が一つ上の階層の要素に対して望ましい影響を与えているときだということ。

では、らき☆すたにおける秩序はどうでしょうか。僕は私的らき☆すた論争まとめでは、各シーンは単なる無作為な日常描写ではなく、目的意識をもって作られていると書いた。さらにこの作品は作画や声優の演技などのキャラクターを構成する要素に関しては優れているし、各シーンを構成する美術やセリフ回しなどの要素も各シーンを十分に支えている。つまりこなたたちの日常を描いた各シーンにおいては十分に秩序があるということです。

さらに、各種パロディやらっきー☆ちゃんねるにおいても、それら自体には、少なくとも独立してみるならば、十分な秩序があるといえる。パロディにおいては京アニの優れた技術が存分に活用されていて、それがシーン全体を優れていて統一感のあるものにしているし、らっきー☆ちゃんねるにおいてもキャラクターと脚本などが十分に全体をサポートして、一貫した雰囲気を演出している。

実写EDにしても、真意はわからないが、視聴者に嫌な感じを与える、もしくは煙に巻くといった目的という点では、十分に秩序があるといえる。この場合は、秩序がないということも、それは無秩序を表現するための要素なのだから、秩序の一つに数えられる。(恐らく実写EDにおける無秩序とらき☆すた全体における無秩序というのは別のものです。)

このように、らき☆すたには部分的な要素においては十分に秩序があるといえる。では全体においてはどうか、ということが問題になり、さらにはこの作品の提出する実存的な問題とはなにか、というところまで行きたいんだが、それを論ずるのは次の機会に。書くかもしれないし、書かないかもしれない。前者についてはほとんど答えは出ているようなものですが。