私的らき☆すた論争まとめ

巷を騒がせていたらき☆すた論争。事の発端は次の記事を含むサイトの作品批判。
らき☆すた第12話「お祭りへいこう」 - Danimation
このサイトの主張に、以下のように物語の不在がらき☆すたの欠点だとするものがある。


第1話の段階ですでにそういった"あるあるネタ"がでてきましたので、第2クールも後半に差し掛かった段階でいまだに"あるあるネタ"メインに話が展開していく様は、なんというか物語のメリハリがないというか、(人間関係の)情報量が増えていないというか、下手をすると「第2話以降話が進んでいないんじゃないの?」と思ってしまいます
これに、作品には物語が必要だという根拠のない前提を下敷きにした議論である、と批判するのは簡単。

しかし物語がない代わりにらき☆すたには何があるのか? その問いに答えないことには、物語がないから面白くないと言う人を説得することはできないように思う。感覚的な面白さがあるというのは最もだが、それでは伝わらない。

確かに「日常」が描かれているから、と答えることはできる。しかし「日常」が描かれてるから面白いというのは、本当に自然な主張だろうか。普通に考えれば、「日常」は退屈さの象徴だといえる。日常が退屈だからアニメに非日常を求めてるわけです。

もちろん、らき☆すたで描かれてるとされる「日常」は、僕のようなキモヲタの汚物と悪臭にまみれた日常ではなく、京アニの美麗な作画によって描かれた美少女たちの育む、世の中のあらゆる不安や煩わしさから解放された、理想的な日常である。だから面白い。ということもできそうではある。

これは恐らく多くのらき☆すた肯定派たちの意見であり、僕もそう思っていた。しかし、これではらき☆すた否定派は納得しないと思う。この主張はつまり、自分たちの嗜好にあった萌えキャラが出ていて、京アニクオリティでなんでもない日常が描かれていさえすればそれでいいということで、らき☆すたにそれ以上の価値を認めていない。それなら「思考停止」と言われるのも最もであるように思える。(「思考停止」が良いか悪いかは別問題)

そう思っていたところで、次の論考が表れた。というか、次の論考のおかげで、そう考えるようになった。

http://blog.goo.ne.jp/skripka/e/b479212ac3823d3985d87d4a2b00a467


らき☆すた』では、コードの「意味作用の転換」が多用される。例えば、18話でこなたが小学校の卒業文集に書いた「将来の夢」。かがみはこなたの飽きっぽさに注目するが、こなたの「そういうの見ると、当時好きだったゲームや漫画が何だったか分かるね」という一言で、一気にそのコードの意味が転換される(飽きっぽいというコードから、オタクというコードへ)。ちなみにこのシークエンスではBGMも止まって、かがみの呆れた口調のモノローグが強調される。

筆者は以前のエントリで、『らき☆すた』はボケのこなたと突っ込みのかがみというギャグの様式の定型化が、作品の構造を分かりやすくしているという趣旨で書いた。それをこの「コード」を使って言い換えてみると、あるシチュエーションに遭遇したときに、一般人であるかがみが自明としているコードと、オタクであるこなたが自明としているコードとの齟齬が、面白さを生じさせていると言えるのではないだろうか。

らき☆すた』の面白さは、その齟齬同士が擦れあって生じる「摩擦熱」のようなものではないだろうか。

ここではらき☆すたの面白さが、単なる日常描写以上のものとして示されている。「コードの齟齬」を描こうとしていると言うことは、制作者が目的意識をもってシーンを作ってるということであり、ありのままの、または無作為に選ばれた日常を何も考えずに描いているわけではないと言うこと。ということはそれを楽しんでいる受け手も「思考停止」しているわけではなく、工夫された表現だからこそ楽しんでると言うこと。

ここで僕は特に初期のらき☆すたに感じられた、まったりした日常を描いてるはずなのに作品から感じられた得体の知れない緊張感を思い出す。この緊張感は、恐らく、コードの齟齬を描くために必要最低限の表現しかしていなかったことに由来している。シーンの切り替えの早さは恐らく、それを描くために必要のない部分を徹底的に切り詰めた結果のものである。そこには徹底した表現の洗練があったのではないかと思う。

もちろん「コードの齟齬」ですべてを説明できるかどうかはわからない。僕はほとんど実際の表現をその観点から再検討してはいないし、そもそも僕は「コード」という概念を良く理解していない。しかし、上の論考に具体例を伴って示されたその分析は十分に説得力があり、少なくとも分析の方向性としては正当なものだと思う。らき☆すた否定派も、少しは納得するんじゃないでしょうか。

ちなみに、上の論考はらき☆すたのパロディや実写EDの分析に関しては無力なのであって、それに対しては同じサイトで別の分析が行われている。

http://blog.goo.ne.jp/skripka/e/66d33f85ac76583466a7773a35c9a8f8

この論考によると、らき☆すたは「パロディとパスティーシュ、そして視聴者の差異化とヒエラルキィの生成」という「二つの要素がDNAの二重螺旋のように絡み合ったメタ構造」とのことで、「二重螺旋」というのはよくわからないが、形骸化したパロディとそれによって生まれる受け手の優越意識がらき☆すたのパロディの本質である、と言っているんだと思う。

パスティーシュ」についての解説は次のサイトがわかりやすい(英語)。(この意味での使い方は現代思想特有のものなようで、ウィキペディアに行くと違った用法が出てくる。)
Introduction to Fredric Jameson, Module on Pastiche

このサイトによると、Jamesonという人はパスティーシュは表面的な真似事で中身がないからダメだといってるのに対して、Hutcheonという人はむしろ中心的な価値観に対して疑いを投げかけるものとしてパスティーシュ(この人はParodyという用語を使ってるようですが意味は同じでしょう)を肯定している。

すると最近のらき☆すたの暴走っぷりは、既製の伝統や先入観を内側から解体する極めてポストモダン的なゲリラ的戦略であるとかいえないこともなさそうですが、僕には単なる無秩序にしか見えない。

上の論考でも、「筆者の個人的な感想としては、実写EDやキャラ・ソンなどの商品展開をみても、どうも行き詰っている感が否めない」と分析の手が及ばなくなってしまってるように、単に奇抜なことをやれば話題になって売れる、ぐらいのものにしか見えないんだけれど、どうなんだろう。