第6話 「シナモンシュガーレイズド・ハピネス」

アイスをなめるむつきがもう。

前回と感想は同じでキャラの感情の動きをエピソードと言う形で示さずに、断片的な回想シーンとセリフのない映像を流すだけのシーンで見せているだけで説得力がない。このシリーズはそもそも脚本で見せるつもりがないことがわかって来た。

今回の構成にはフタコイオルタナティブの桃井姉妹が登場する第3話「エメラルドマウンテン ハイ」との共通点が多く見られる。脚本と絵コンテは同じ人。まず登場人物が青春の一時を満喫しているということが、セリフ無しで青春にありがちなシチュエーションをミュージックビデオのように流すことによって表されていること。フタコイの場合はは恋太郎が愛と携帯を探すシーン。他には同じカットを最初と最後で使い、変化した物語に対して不変の現実を示す手法。まなびストレートの場合は試験のシーンで、フタコイの場合は飛行機が飛んでいく音と影を三度にわたって見せていたこと。あとは基本的に状況をなるべく少ない言葉で表そうとすることや、シュールなコメディーチックなシーンを多く使っていること、リアルな美術へのこだわりが共通点として挙げられる。

にも関わらず今回のまなびストレートフタコイの時のような感動がない。フタコイの時は青春の美しさや儚さ、今という時の大切さが身にしみて伝わってきた。「3年も経てばいろいろ変わる、何もかも同じではいられない。たぶん、そういうことなのだ」という恋太郎@関智一のセリフは一生忘れないほど心に焼き付いている。

脚本の中身のなさという点ではまなびストレートフタコイも同じなわけで、なぜ前者は駄目で後者はいいのだろうか? 前者の青春の一時をミュージックビデオのように流すシーンは何の感動も受けず、後者はその楽しさと儚さが伝わってきた。これはなぜかというと、フタコイの場合は主人公たちの境遇が制作者たちの境遇に近いものであり、自分達の経験を重ねることによってリアルなものが出来上がったの対し、まなびゆーとぴあの場合は文字通り「ユートピア」であり、制作者にとって非現実的なものであり、その制作に自分達の経験を重ねることは難しい。だから内容のリアリティに差が出てくるんだと思う。また、視聴者にとってもフタコイの登場人物は自分達と近い境遇にあり、脚本で多くを語らなくても感情移入できるのに対し、まなびストレートの場合はそうではないから、脚本の助けがないと登場人物に感情移入したりリアリティを感じたりするのは難しい。だからまなびストレートは非現実的な世界で起こってることなのだから、脚本で登場人物たちの感情の動きを追いかけていくべきだったと思う。

脚本:金月龍之介 絵コンテ:平尾隆之 演出:隼人 作画監督:番由紀子