「批評」という言葉の意味について

アニメについて考えたことを書いて、それが「批評」であるというと、多くの場合「個人の感想にすぎないものを批評だと言うな」という返事が返ってくる。これは直感的には妥当な主張であるように見える場合が多い。しかしその返事をした人に「なぜそれが批評ではないのか?」と問うた場合に明確な答えが返ってくることはあまりないだろう。我々は「批評」という言葉を日常的に使用してはいるがその意味をあまりはっきりは理解していないように思える。

この論考では「批評」の意味をはっきりと定義してみたいと思う。この場合の「はっきりとした定義」とは、その定義によって、全ての主張についてそれが批評であるかそうでないかを客観的に・曖昧さなしに決定できるような定義である。

なぜそのような定義が必要かというと、「批評」という言葉に自分も含めて多くの人が尻込みしてしまうからである。自分は「批評」らしきことをやっていても胸をはって「これは批評である」と言えない。そして「批評」ということに恐れをなして自分のやっていることが批評だか感想だかなんだかわからずにモヤモヤとした気分のまま「批評らしきこと」を続けてしまう。これはあまり健全な事態だとは思えない。だから「批評」とは何かということをはっきりさせて、自信を持って自分のやってることが「批評」であるかそうではないかをはっきり言えるようにしようということである。

そのような事態が起こってしまうのは、「批評」という言葉に手垢が付きすぎているからだと思われる。批評は一般には教養のある人間がしたり顔で難しい用語を使って話すものというようなイメージが付きまとっている。「批評」というと堅苦しい文体で論理的な文章を書かなければいけないというような気がしてしまう。これにはいわゆる「文芸批評」や「映画批評」などを昔から知識人が行ってきた歴史が関わっているだろう。

だが「批評」というのは言葉にすぎない。そこには「りんご」や「野球」と同じようなはっきりした意味があるはずである。ここではそういう歴史を完全に無視して(そもそも僕はそういうのを良く知らない)「批評」の意味を考えてみたいと思う。いわば「批評」という言葉の「手垢」を落とそうということである。

だから、ここで明らかにしようとしている「批評」とは小難しそうな雑誌の表紙に載っている「批評」でもなければ、哲学や人間の本質に関わっている何物かと思われているような「批評」でもない。あくまで日本語話者として常識的に知っている言葉である「批評」である。そのような「批評」は批評でないと小難しそうな雑誌を好む人はいうかもしれないが、日本語を普通に使うことに文句を言われる筋合いはないはずである。

「批評」の定義

大辞泉(Yahoo!辞書)によると「批評」は次のような意味を持つ。

[名](スル)物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。「論文を―する」「印象―」

さらに、角川類語辞典(Atok版)の「批評」の項の注釈は示唆的である。

対象の価値を判断するのが「評価」である。その判断に至るまでの内容を論理的に述べれば「批評」になる。

これらの定義は直感的にも受け入れられるだろう。「判断に至るまでの内容を論理的に述べる」とはつまりは理由付けをするということである。理由付けは常に論理的であろうとするものであり、非論理的であればそれは間違った理由付けでしかないから、論理的であることはわざわざ述べなくて良いと思われる。つまり、批評とはある作品を評価し、それに対して理由付けをすることである。

「評価」には説明が必要だろう。何かについて何らかの価値判断的なことをするのが評価ではあるが、「評価」と呼ばれるのは一般に客観的な判断である。例えば「このアニメは面白いと感じた」や「主人公の勇気に感動した」は作品に対して価値判断的なことをしているが、「評価」とは呼ばれない。「このアニメは傑作だ」や「主人公の作画が優れている」というのは客観的な判断であり、「評価」と呼ばれる。

しかし「このアニメは傑作だ」という文は話し手の主観的な感想を表していることもあるし、「このアニメは面白い」という文になるとさらに主張が客観的か主観的かが曖昧である。だから「評価」を明確に定義するのは無理だと考える人もいるだろう。しかしこれは文が曖昧なのであって話し手の主張が曖昧なわけではない。話し手の意図としてはその主張が自分の感じたことなのか作品自体の属性なのか区別がついているはずである。よって「評価」が客観的な価値判断を表すということは、全ての主張についてそれが評価であるかそうでないかを判断するのに十分な定義であると思われる。

これで「批評」の定義としては十分だと思われる。すなわち何かを評価してその理由が主張されていればそれは批評であり、その「評価」は客観的な価値判断であるということである。そしてこの定義によって全ての主張についてそれが批評であるかそうでないか判断することができる。例えば

  • 今回は作画が良かったから傑作だ。
  • このアニメは駄作。構成が最悪だ。
  • ヒロインが可愛かったから今回は神。

これらの主張は全て理由付けと客観的な価値判断があるから批評である。優れた批評ではなくとも批評である。批評でないものとしては、

  • つまらん。
  • 構成が最悪。
  • ヒロイン萌え〜。
  • このアニメは何度みても面白い。
  • 今回の挿話は歴史的傑作ということができるでしょう。

これらは理由付けがないから批評とは呼べない。

「感想」について

よく「批評」と対比して使われるのが「感想」である。最初にいったようにアニメを見て思ったことを客観的な作品の価値であるかのように主張すると、よく「それは批評じゃなくて感想だ」といわれる。この場合の「感想」もはっきりと理解されていないように思われる。何が「批評」であるかは既に明白ではあるが、アニメについて考える場合に「感想」が何であるかもわかっていた方が有用だろう。ここではその問題を考える。

大辞泉(Yahoo!辞書)によると「感想」は、

物事について、心に感じたことや思ったこと。所感。「―を述べる」「読書―文」

これで「感想」の定義としては十分だろう。

この定義から得られる帰結の一つとしては、感想を述べること自体は主張を含まないということである。自分が感じたことをそのまま表しているだけなのだから、それは現実を記述(describe)しているだけであって、何か意見を言っているわけではない(「〜と感じた・思った」という主張はしているが、主張と呼べるものはそれだけである)。これが、客観的な主張である「評価」(とそれを含む「批評」)と「感想」の違うところである。

何が感想と呼べるかというと、

  • つまらん。
  • ヒロイン萌え〜。
  • 構成が最悪。
  • このアニメは何度みても面白い。
  • 今回の挿話は歴史的傑作ということができるでしょう。

これらの文のうち、最初の二つが感想であることが多いだろう。三つ目はそれらよりは少ないが感想であることは多いだろう。感想でなければ評価である。四つ目は何度見ても面白いと感じたということだから感想というよりは自分の経験の記述である。五つめは評価である。

まとめ

短い論考ではあるが、日本語の「批評」がどういう意味を持っているかについて十分な記述ができたと思っている。「批評」とは評価をすることとその理由付けをすることであり、その「評価」は客観的な価値判断をすることであった。また、「感想」は自分の考えたことをそのまま述べることであり、批評と違うのは(「〜を感じた・思った」以外の)主張を含まないということであった。これによって我々は多くの批評とも感想とも付かないような主張が批評であるかそうでないかをはっきりと区別することができるはずである。

もちろん重要なのは優れた批評をすることであるが、この定義から、優れた批評は「正しい評価と正しい理由付けをすること」であることは明白であり、自分のやってることが感想か批評かどうかわからない霧中を彷徨うような状態よりは前進したと思われる。また、我々は自分のやっていることが批評でないといわれても、辞書に書いてある定義では自分のやっていることは批評なのだから問題は無い、と胸をはって言えるようになったはずである。

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